ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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「東洋一」が相次いだ団地県

2014年06月30日 17時31分53秒 | 人口(外国人)



団地とは。夫婦と子供2人を想定した2DK。ダイニングキッチン(DK)に6畳、4畳半。フロアにはテーブルと椅子もある洋風間取り。バスに水洗トイレ、それに洗濯物を干せるベランダ。家賃は月収の約40%。

40~60平方m。ダイニング(食堂)とステンレスの流し台のあるキッチン(台所)をスペース節約のために一つにし、銭湯に出かけるのではなく内風呂付きで、汲み取り式ではなく水洗トイレつきだった。

1958(昭和33)年、「団地族」という言葉が生まれた頃には、これだけが揃っている日本住宅公団(55年設立)の「公団住宅」は、あこがれの的だった。

埼玉県には、東武東上線や東武伊勢崎線沿線などに大規模団地が続々と立ち、東京からのあぶれ族を核とする「人口爆発」を支えた。

「日本住宅公団史」をめくると、1955(昭和30)年度から79(同54)年度までに、賃貸、分譲合わせて約10万4千戸ができ、さいたま県は、東京都、大阪府、千葉、神奈川県に次いで5番目だった。

県の人口が700万人を超し、全国5位、市が40と全国一の数になったのも、この団地建設が基礎になった。

住宅公団の県内初の大規模団地は、「霞ヶ丘団地」だった。ふじみ野市霞ヶ丘にあり、東上線上福岡駅から歩いて3分。

2階建て長屋スタイルのテラスハウスが多く、1959(昭和34)年入居開始当時は、公団の関東支所(東京、千葉は東京支社)で最大(204棟、1793戸)の団地だった。

老朽化して、高層の「コンフォール霞ヶ丘」に建て替えられているので、昔を知る人は少なくなってきそうだ。

ふじみ野市には、上福岡駅を挟んでもう一つ古い公団住宅がある。上野台にある「上野台団地」である。

旧陸軍弾薬工場(火工廠)の跡地に出来たもので、1960(昭和35)年竣工当時は、関東支所最大(2080戸)とされた。

「霞ヶ丘団地」と「上野台団地」は、有名な「八千代台団地」(千葉県八千代市、57年)、高島平団地(東京都板橋区、72年)、「香里団地」(大阪府枚方市、58年)、「男山団地」(京都府八幡市、71年)などとともに「東洋一のマンモス団地」と呼ばれた。

今では「ギネス世界一」だが、当時はまだ「東洋一」自慢だったのである。

「東洋一」と言えば、草加市の「草加松原団地」(5926戸、62年)、春日部市の「武里団地」(5559戸、63年)も、竣工時そう呼ばれた。

草加の人口は、1年間で約2万人増加し、人口増加日本一を記録したほど。2万人以上が暮らした「武里団地」には何年か住んでいたことがある。当時は東洋一とは知らなかったし、その実感も余りなかった。

県内にはこのほか、上尾市西上尾小敷谷に「西上尾第一団地」(3202戸、69年)、「西上尾第2団地」(3033戸、70年)もある。

もっと大きいのは、武蔵野線新三郷駅に近い三郷市の「みさと団地」である。総住宅戸数は、1万戸に近い9867戸。人口2万3千人を擁する国内指折りのマンモス団地。

南ブロック(1-6街区)は5階建て低層住宅、北ブロック(8-14街区)は11階建て高層住宅が多い。

1973(昭和48)年、第1次入居開始なので、老朽化も目立ってきた。

巨大なマンモス・クラスだけを挙げてみたが、東京に隣接する埼玉県は全国屈指の団地県だった。

団地の林立には問題もあった。草加松原団地の場合、98%近くが都内へ通勤、県内勤務はわずか1.8%で、ベッドタウンそのものだった。また、南浦和団地に住む人の83%が東京の人だった。

草加松原団地では、公団が上水道、ごみ、し尿処理場などは公団が整備したものの、小学校2つと中学校1つの建設費は草加市持ちだった。

「これでは受け入れ市の財政負担が増えるばかりで、埼玉県の住宅対策にはならない」と「住宅団地お断り」の声が各地で高まってきた。

県と住宅公団との話し合いで、関連施設の整備も考慮した大規模団地(2500~3千戸)の建設と県民の優遇入居促進も要望された。

住宅不足解消のため住宅公団に代わって、県営住宅や県住宅供給公社の比重が高まって来るのである。



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