ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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田舎教師 羽生市

2014年05月06日 16時21分54秒 | 文化・美術・文学・音楽


羽生は田舎教師のまちである。

どこに行っても田舎教師で、「田舎教師最中」の広告さえ電信柱にあった。

若い頃は文学青年気取りで、野田宇太郎の「新東京文学散歩」を手に東京を歩き回った。今は小説もほとんど読まない日々だが、14年5月思いたって羽生市を訪ねた。

なぜ隣県の館林市出身の小説家・田山花袋が利根川を隔てた羽生の青年のことを書いたのか、気になっていたからだ。

その謎はすぐ解けた。東武東上線羽生駅のすぐ近くにある建福寺に、この小説のモデルになった小林秀三の墓があるというので、真っ先に訪ねると、この寺の第23世住職の大田玉茗(ぎょくめい)が大きな役割を果たしたことが分かった。

この名前は、明治文学史の中でかすかに記憶に残っていた。新体詩人で、花袋、尾崎紅葉らと交友があり、花袋はその妹里さと結婚していたから、花袋は義兄に当たる玉茗の寺をしばしば訪れた。

建福寺には秀三の友人たちが立てた新しい墓があり、寺に下宿したことのある秀三の日記が玉茗の手元に残されていたことから、小説の構想を得て、その短い生涯を描いた。

秀三は埼玉県第二中学校(現・県立熊谷高校)を卒業した。向学心にあふれていたのに、家貧しく、三田ヶ谷村(現・羽生市弥勒)の弥勒高等小学校の助教(准教員)になった。

大学に進学していく友人らに比べ、田舎教師に埋没していく自分に悶々とする中、肺結核を患い、3年余りの教師生活の後、20歳で死んだ。1904(明37)年、日露戦争の勝利(遼陽占領)に羽生の町では提灯行列をしていた時である。

花袋も幼い頃父を亡くし、苦労した経験があるので、他人事とは思えなかったのだろう。

秀三は、建福寺に下宿した後、通うのに時間がかかるので、小学校に移り住んだ。すでに廃校になっている小学校の前に銅像が立っているというので、駅前から市のあいあいバスというマイクロバスに乗って出かけた。

かれこれ30分、その名も「田舎教師像前」というバス停で降りると、目の前の三叉路の真ん中にその像は立っていた。1977年に建立された。(写真) 県営さいたま水族館、羽生水郷公園や東北自動車道の羽生ICも近くにある。

近くの円照寺の境内には、当時の村の面影を伝える「お種さん資料館」がある。秀三が勤める学校へ弁当を届ける、料理屋小川屋の娘として登場する「お種」のモデル小川ネンさんにちなんだものである。

この小説には、ネンさんのように実在した人物が色々登場している。関訓導の名前になっている速水義憲氏は、食虫植物ムジナモを埼玉で初めて発見した人だった。

学校近くの宝蔵寺沼ムジナモ自生地は国指定の天然記念物になっている。

1938年、片岡鉄平、川端康成、横光利一の3人が「田舎教師遺跡巡礼の旅」称して、羽生を訪れた写真もあった。この寺には89歳まで生きたネンさんの墓もある。

バスの便数は少ないので、駅まで歩いて帰った。市立図書館・郷土資料館に立ち寄ると、1909(明治42)年、左久良書房(東京・神田)から出版された「田舎教師」の初版本が展示されていた。

箱入りの美装本で、秀三が死亡時にもらっていた月給14円で換算すると、その値段は現在なら2万円するという説明があって驚いた。

色々勉強になった文学散歩の一日だった。





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