塙保己一 雨富検校
保己一は人生で二度大きな挫折に見舞われた。その危機を救ったのは、保己一が江戸で入門した盲人の一座の頭領である雨富須賀一検校だった。
当時、盲人の男性たちは幕府公認の「当道(とうどう)座」といわれる組合を作って、あんまやはりの治療、琴、三味線の音楽の流し、高利貸しなどで生活していた。このような盲人が自活する組合は世界に類はなかった。
いずれも技術を修行して身につける必要があった。多くの幕府公認の階級があり、その最高位が検校。検校はそれぞれ弟子を持ち、一座を作っていた。
雨富検校は、茨城県の農家の出身、幼い頃病で失明、江戸に出てあんまとなり、検校に出世、家は現在の新宿区の四谷にあった。その本姓が「塙」だった。
人間には、得手不得手がある。保己一は、江戸に出る前から記憶力は抜群だった。しかし、生まれながらの不器用。あんまもはりも下手、琴も三味線も調子外れだった。
幕府は盲人の生活を保証するため、「座頭金(ざとうがね)」という高利貸しを許していた。その取り立てもできず、完全な落ちこぼれであった。
江戸に来て1年後の16歳の時、絶望して、近くの九段坂にある牛が淵の堀に身を投じようとしたが、「命の限り励めばできないことがあろうか」という検校の言葉を思い出し、思い直した。
検校は、保己一が学問好きで非凡な才能の持ち主であることは分かっていたので、「盗みとばくち以外、何でも好きなことをやれ。三年間面倒を見る」からと、好きな学問に打ち込むことを許した。
生きがいを得た保己一は、嫌いだったあんまやはりにも精を出し、代金の代わりに本を読んでもらった。学問好きなあんまは評判になり、検校の隣家の旗本は一日おきに本を読んでくれ、国学者に紹介してくれた。
こうして学問への道が開かれ、国文学、国史、神道、漢文、律令(日本の古い法律)、医学と範囲は広がっていった。
学問をしながら、「般若心経」を毎日、百回読むことを決め、18歳で普通の盲人たちの上に立つ「衆分」に昇進した。
目の見えない保己一の学問は、人が読んでくれるものを必ず覚えこむやり方で、絶えず聴覚を緊張させていなければならない。ただでさえ健康でない保己一はこのストレスのため20歳頃病気がちになり、良くならなかった。
心配した検校は、今で言えば転地療法のため、保己一に伊勢神宮への代参を勧め、5両を与えた。目の不自由な保己一のため父親が同行した。
伊勢の後、京都、難波、播磨、紀伊、大和、吉野へまわり、60日余。保己一はすっかり元気を取り戻した。学問の視野が広がったのは言うまでもない。
盲人社会では、昇進のために大金がいる。「衆分」「勾当」へと昇進の際、保己一の金銭の面倒を見てくれたのも検校だった。
保己一が、検校の本姓「塙」を名乗った理由がよくわかる。雨富検校は、保己一が38歳で検校になった翌年没した。
雨富検校と保己一の墓は四谷の愛染院に並んで立っている。(写真) 目は不自由でも具眼の士がいたのである。この項は主に、「埼玉の偉人 塙保己一 利根川宇平著」(北辰図書)による。
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