ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

アンドリュー・ワイエスのコレクター 朝霞市

2012年11月23日 19時46分10秒 | 文化・美術・文学・音楽

アンドリュー・ワイエスのコレクター

絵を見るのは大好きだ。東京に通っていた頃は、上野の国立博物館を筆頭に目ぼしい美術館の主要な展覧会はほとんど見た。

どこの県にも県立美術館はある。わが埼玉県にも、JR北浦和駅からほど遠からぬ北浦和公園のなかにあり、この公園は昔から私の好きなところだ。

会社通いを止めて、暇つぶしに加入させてもらったシニア大学の教室は、この公園に道路を隔てて向かい合った公民館の中にある。

その大学のカリキュラムの一つに「県立美術館見学」があり、一緒に美術館に出かけた。“学生”が125人もいるから大変だ。

学芸員の説明を聞くと、大変面白い。開館以来よく来ているとはいえ、企画展を見に来る程度だから知らないことが多い。

一番興味を惹かれたのは、この美術館が女優・若尾文子の夫だった黒川紀章の設計だということだった。黒川紀章はこれをきっかけに各県の美術館、ついには遺作の東京・六本木の「新国立美術館」に至ったのだというである。建築には絵と同様、昔から関心がある。

もう一つ飛び上がるほどびっくりしたのが、9月25日から12月12日(10年)までこの美術館で展示している「アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語」の出品作約200点のすべての所有者が、埼玉県は朝霞市の倉庫業者だということだった。

ワイエスの絵は渋谷の文化村などでこれまで二回見た。それが埼玉県に関係があったとは露知らなかった。

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は2007年、ブッシュ大統領から芸術勲章を受けたほどの米国の国民的画家。米北西部のメーン州などで、米国の原風景とそこで暮らす身近な人々を、主に水彩やデッサンで描いた。

代表作はニューヨークの近代美術館にある「クリスティーナの世界」。メーン州でスウェーデン系のオルソン家の、モデルになった姉クリスティーナと弟のアルヴァロをモチーフにして30年描き続けた「オルソンハウス・シリーズ」は有名で、世界的にも高く評価されている。

「クリスティーナの世界」は、そのシリーズの一つ。今度の展覧会には「クリスティーナの世界」の最初の習作など約2百点が展示されている。

クリスティーナはポリオで生まれつき足が不自由だったが、独立心が強く、車椅子や松葉杖は使わなかった。アルヴァロは漁師だったのに、クリスティーナ看病のため、ブルーベリー栽培に転向した。

ワイエスは、二人が亡くなるまでその生活の断面の全てを描いた。シリーズ最後の年の絵は、誰もいなくなった寂しいオルソン・ハウスである。

体育の日の10月10日(10年)、県立美術館で、この朝霞市のコレクターの講演があった。須崎勝茂氏(写真)。朝霞市の貸倉庫会社「丸沼倉庫」の社長である。1978年に27歳で家業を継いだとき、父親に「経営に携わるものは何か趣味が持ったほうがいい」と言われた。

陶芸の手ほどきを受けていたとき、芸術家たちが仕事場がなくて困っていることを知り、朝霞市に母と「丸沼芸術の森」を設立、外国人を含め十数人が制作に励んでいる。238点のワイエス・コレクションもこの森の所有だ。

ワイエスの絵も、この画家たちの役に立てばと伝えたところ、応じてくれたものだった。この森は1985年に始まったが、世界的なアーティスト村上隆もこの村育ち。約20年間ここで制作に当たった。

「オルソン・ハウス物語」は、日本各地の美術館で展示されたほか、米国各地、さらにスウェーデンでも開かれた。「巨匠の作品を自分の絵だけで世界で展覧会ができる」人物は現在、日本にはまず見当たらない。


観音院 秩父札所31番  小鹿野町

2012年11月23日 17時00分40秒 | 寺社



12年4月、仲間と二度目の秩父札所めぐりに出かけた。今度は34寺中で最西端の31番「観音院」だけである。

秩父札所の中で最高の景観を誇るとされるだけに、さすがに素晴らしかった。

西武秩父駅からバスで40分。老人の足だから終点の栗尾で降りて、坂道を同じくらいの時間歩く。

「花街道」の名に恥じず、名物の「しだれ桃」が、坂の下から上に順に開き始めていた。

「しだれ、梅、桜」には慣れているものの、「しだれ桃」、それも一本ではなく、道の両脇のあちこちに咲こうか、咲くまいか、微妙な状態にあるのを見たのは初めてだった。

白、紅一色のもあれば、同じ木に白、紅の花が別々についているもの、もっとすごいのは花の中に白、紅の混じっているもの。満開になればさぞ美しかろう。

中国人が昔から桃が好き。「桃源郷」という言葉があるのを思い出した。この春、寒冬の反動で、ソメイヨシノの満開を食傷するほど見たので、「しだれ桃」の美しさは、中国的で格別だった。

この寺は、仁王門に一本石造りとしては日本一の仁王像があるので知られる。木作りの仏像があるのと同じように、一本の砂石から彫り出したものだ。

4mを超す荒削りな石像。地元の日尾村の黒沢三重郎と信州伊那郡の藤森吉弥の作で、明治元(1868)年に完成したとある。

この石は、寺の奥の観音山から切り出された。地元産である。昔は秩父地方の墓石は、ここから切り出されたものが多かった、という。

仁王門から本堂まで296段の急な階段を登る。手すりもあり、赤い四角の杖もあるので、それを借りて上る。

般若心経の字数は276.それに回向分の20字を足した数なのだそうだ。「お経(心経)を唱えながら登ってください」と書いてある気持ちがよく分かる。

階段の両側に多くの句碑が立つ。本堂が改築された際、埼玉県俳句連盟の役員有志が建立した、と記念碑にある。なかなかの作品が多く、いちいち読んでいたら、登るのに時間がかかった。

本堂は大きな岩を背にしており、左手に落差20mの滝がある。水量が多かった時代には、修験者たちが荒行に励んだという。滝下の池の上に不動明王の像があり、池には大きな鯉が泳ぐ。

滝の左側の断崖の大岩には、県指定史跡の磨崖仏10万8千体が刻まれていると書いてある。風化摩滅のため判然としない。

この岩は、2、3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた礫質砂岩だという。

秩父が大昔、海底にあったことは聞いたことがある。海底の岩が隆起して目前にあるわけで、感慨を禁じえない。

本堂からさらに階段を登ると、芭蕉の句碑もある東奥の院だ。西奥の院は、土砂崩れがあったため、閉鎖されている。

東奥の院から西奥の院を遠望すると、多くの石仏の姿も見える。この高みに立つと、秩父札所で最西端のこの寺が「西方浄土」と見なされた気持ちが分かる。

無住(無住職)の寺(曹洞宗)ながら、奉賛会の中の5人が、交代で365日朝8時から午後5時まで詰める。ご苦労様としか言いようがない。

本堂の近くで「秩父札所サイクル巡礼」のポスターを見かけた。札所巡りにもサイクリングの時代が到来したようだ。

坂道が多いとはいえ、34寺合わせて100kmだから、若くて元気なら難しい距離ではない。

観音院の手前にある地蔵寺は、札所ではなく水子供養の寺である。1971(昭和46)年の落慶式には、住職の知人だった当時の佐藤栄作首相も祭文を読み、写経を納めた。

山の山腹の何か所かに、赤いおべべ(おかけ)に赤い風車のついた1万4000体を超す水子地蔵が、ずらり並んでいる光景はショッキングである。

建立由来を記した石碑には、第二次大戦後、優生保護法が制定されて以来、胎児の中絶は、当時すでに3千万を超えていたと書いてあり、二重のショックを受けた。

しだれ桃に観音院、地蔵寺と札所最西端に来た甲斐が十分にあった。

映画「のぼうの城」 行田市

2012年11月23日 14時05分59秒 | 文化・美術・文学・音楽


ほんとに久しぶりで「映画館」で映画を見た。

学生時代は映画キチで映画評論家を目指していた。昼夜6本を見ることも珍しくなかった。白黒時代のフランス映画から、当時はやりの次郎長ものまで映画は手当たりしだいに見た。

「映像万年筆論」などという迷論にだまされて、本さえ読まず映画に没頭した

その反省もあって、最近は、テレビで古い名画をたまに見るだけだ。

それでもなぜ映画館まで足を運んだのか 

「のぼうの城」のためである。その映画の舞台になった行田市の古墳群や古代ハス池も何度も訪ね、背景については百も承知だ。

そこへ来たのが

「堂々! 2週連続・第1位! 」「空前絶後のとんでもない《大逆転》に驚き笑う! 興奮と感動の劇場内、これを見ないと今年は終わらん! 」

という朝日新聞の広告である・

「戦国最後の大合戦、驚愕の実話!200万部を越える大ベストセラー映画化! 」とも付記してある。

最近、小説にも興味がないので、読んではいない。「それほどならば」と、重い腰を上げた。
浦和駅前のコルソ内のユナイテッド・シネマ浦和。60歳以上の老人は1800円のところを1000円で見られると聞いて驚く。

昔、ションベンの匂いのする三本立て映画館に慣れていたので、座席も素晴らしく、座席が階段状に並んでいるのにも驚く。

ウイークデーの昼間だったので、ガラガラかと思っていたら、老人が仲間連れで来る姿が多く、真ん中の席は埋まっていた。

約2時間半、紙芝居的な面白さは十分で、観客は終わって、配役の名前が流れても席を立たない。

全国公開から3日間で観客動員数41万人弱、興行収入5億円余、埼玉県内20の映画館では、知事を初め、県人口比6%を上回る約12%にあたる約5万人が観賞したという数字がうなずける。

観客動員数ランキングでは、1位が地元「ワーナーマイカルシネマズ羽生」、2位が「熊谷シネティアラ21」だったという。5位にはさいたま市の各シネコン(複合映画館)が入ったという。

「ぶぎん地域経済研究所」は12月中旬、この映画の公開に伴う県内への経済波及効果を約38億円とはじいた。

筋書きは、忍(おし)城に石田光成の大軍2万が攻め込み、水攻めにめげず、「のぼうさま」と呼ばれる臨時城代・成田長親(ながちか)が奮戦するというもの。

開城のはずだったのに、戦いの発端は、交渉に来た使者のなめきった傲慢な態度に対する反発だった。

北条氏の小田原城の支城の中で、最後までただ一つ開城しなかった忍城への共感がこれだけの県内の観客を動員したのだろう。

日頃「ださいたま」と呼ばれている埼玉県民の屈折した感情が背景にある。

映画は斜陽といわれて久しい。しかし、年々増える老人たちを惹きつけるテーマを持つものなら、たとえローカルなものでもまだまだ頑張れると、テレビにはない素晴らしい音響を聞きながら思った。

研究所によると、週末に大型バスが訪れるなど、観光客が増えているほか、関連グッズや土産物の売れ行きは公開前に比べ5~10倍になっているという。

人口減少率が非常に高い行田市の活性化の起爆剤になることを期待したい。この映画には行田市民のそんな願いが込められている。