ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

金子兜太先生を聞く その3 

2012年07月31日 12時36分37秒 | 文化・美術・文学・音楽



「秩父」という地名が頭に刻み込まれたのは、大学一年の頃、ちょっとの間、合唱団に入って、流行のロシア民謡や日本民謡を歌っていた時だった。男にしては高過ぎる声が出るので、すぐ辞めた。

「新相馬盆歌」とともに記憶に残っているのが「秩父音頭」である。

この音頭の

 秋蚕(あきご)仕舞うて麦蒔き終えて秩父夜祭待つばかり

という歌詞は、先生の父親の金子元春氏が創った、ということを知ったのは、秩父地方の資料をあさり始めた最近のことだった。

先生の本によると、元春氏は、秩父の皆野町の農家の長男として生まれた。東京の独協協会中学校(現在の独協高校)に進み、後に「馬酔木(あしび)」を主宰する水原秋桜子と同級生だった。

医者になりたくなかったのに、「医者が一人は欲しい」という家族の懇願で京都府立医専(現・府立医大)を出て医者になった。卒業後すぐ上海に行き、東亜同文書院の校医をした後、皆野町で開業した。

1930(昭和5)年、明治神宮遷座祭があり、その祝いに各県の民謡を奉納して欲しいという要請があった。

当時の知事が、東京の埼玉県の学生寮で、元春氏と一緒と一緒にいたことがあったので、民謡が豊富な秩父の唄をと、元春氏に依頼があった。

秩父には皆に親しまれていた盆踊り歌があった。ところが、歌詞も踊りも卑猥そのもので、とても奉納できるようなものではなかった。

そこで元春氏が中心になって、歌詞は一般から公募して、「鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父」で始まる新民謡「秩父豊年踊り」ができ、踊りも手直しした。1950年に「秩父音頭」と改名された。

「秩父音頭」は、群馬の八木節、栃木の和楽節とともに関東三大民謡の一つに数えられる。

皆野町では毎年8月14日、「秩父音頭まつり」を開き、流し踊りが披露される。

その練習が毎晩、庭であったので、七七七五の五七調の音律が兜太少年の身体にしみ込んだ。

当時、秋桜子が「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」を出し、自分の俳句観を推し進めようとしていた。

「ホトトギスの句には主観(自分の胸のうち)が足りない。ホトトギスの俳句は『自然の真』に過ぎず、『文芸上の真』の俳句を創りたい」というものだった。

元春氏は、元同級生の動きに刺激され、「馬酔木秩父支部」という句会を結成した。

「句会というと老人のもの」というイメージが強い。この句会は30、40歳代の男性が中心で、働いた後、自転車でやってきて、相互批評が活発だった。

「酒のない句会は句会ではない」と、兜太少年の母親が用意する酒を飲んでは喧嘩が始まる。

母親は兜太少年に「俳句は喧嘩だから、俳句なんかやるんじゃないよ。俳人と書いてどう読める。人非人だよ。人間じゃない」と、堅く禁じていたというから面白い。

兜太氏が旧制の水戸高校に入ってから俳句を始めたのも、このような秩父の句会の下地があったからだった。

「俳句は、社会と人間、とくに人間を書くものだ。花鳥諷詠などということはどうでもいい。人間諷詠だ」という戦後の氏の主張は、このような秩父の風土に根ざしている。

一茶への共感も、氏の骨太な句も秩父という産土がもたらしたのだということが分かる。


金子兜太先生を聞く その2 

2012年07月27日 13時50分52秒 | 文化・美術・文学・音楽




金子先生の言う「生きもの感覚」という言葉は、一見分かり易そうで分かり難い。

 花げしの ふはつくやうな 前歯哉

一茶の句の中から「生きもの感覚」の具体的な例の一つとして先生が挙げた例だ。一茶の前歯がぐらついた49歳の時の句である。

前歯が「ふはつく」とは、「ふわつく」、つまり「ぐらぐらする」という意味で、その感触が「けしの花びらのようだ」というのである。

「この洗練された感覚が美しい」と先生は指摘する。

揺らいでいる歯も、歯の後ろからちょっと押してみる舌も、芥子の花のふわふわとした感触も「生きもの」で、すべて差別なく、同じ生きものの世界として感じられている。

すべてが「生きもの」として感じられてしまう。それが「生きもの感覚」の元にあるというのである。

一茶は50過ぎには歯がなくなり、65歳で死ぬまで歯がないままだったという。

先生も若い頃、あまり歯を磨かなかったので、名医にどんどん抜かれて入れ歯になり、今はインプラントにしていると本には書いてある。

私事で申し訳ないけれど、私も歯を磨かなかったのと、戦争時のカルシウム不足の報いで、今はブリッジがほとんど。「80歳で20本の永久歯」など夢のまた夢。歯の話はよく分かる。

前回挙げた一茶の

 十ばかり屁を捨てに出る夜長かな

「人間とはいいものだなあ」と先生はいう。ふるさと秩父の父親の句会の温かい雰囲気が伝わってくる。それはいつも見慣れた光景だった。

これが、一茶の「生きもの感覚」である。

俳句は季語のためではなく、人間のためにあるのだから。

思えば、植物繊維に頼っていた日本人は、サツマイモを食べてはよく、「屁をこいた」ものだ。最近、「屁をひる」人も少ないので、

 屁をひっておかしくもなし独り者

という川柳も分かる人が少なくなったのではないかと思う。

先生の母親は104歳で天寿をまっとうされた。その母を偲んで

 うんこのようにわれを生みぬ長寿の母

というのは先生の近作である。

まさしく、「生きもの感覚」の典型としか言いようがない。そこに季語など入る余地はない。

先生の話を聞いているうちに、「兜太は一茶の生き代わりではないか」と思うようになってきた。

そういえば、二人の体格も似ているなあ。

金子兜太先生を聞く その1

2012年07月19日 14時00分28秒 | 文化・美術・文学・音楽



俳句にはあまり関心はないものの、この先生のことだけはいつも気にかかる。古い言葉ながら「私淑」しているからである。

埼玉出身の文人は、後に県外に居を定めた人が多い。

しかし先生は、今は亡き奥さんの勧めで、「土に近い」産土(うぶすな)の地、出身の秩父に近い熊谷に50歳から住んでおられる。

生粋の「埼玉文人」である。

私が見る度に感激するのは、日本俳句協会の会長と頂点を極められた人が、今でも羽生と三峰口を結ぶ「秩父鉄道」の壁に掲載されている、ささやかな俳句欄の選者さえ務められていることである。真の愛郷者なのである。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  

若い頃前衛俳句のリーダーとして、一読して分かり難い句を多く創ってこられたのが先生。この分かりやすく平明な句が原点で、年を経てまたこの句の境地に帰ってこられたのではないかと思う。

退職してこのブログを書き始めて以来、先生の書かれたものや、先生に関するマスコミ報道をせっせと集めてきた。

地元だけあって埼玉新聞にはよく特集が掲載されていて、参考にさせて頂いた。

朝日俳壇の選者を長くやられていることは、ご承知の方も多かろう。これも退職後、真面目に読み始めた。

俳句より川柳に関心があるのだが、先生の選句を初めどれも面白く、掲載される月曜日の朝が楽しみだ。短歌欄にも目を通す。

「日本人には詩人が多いのだなあ」と感心する時である。

こんな折り、朝日カルチャーセンターが12年7月17日午後に新都心のホテルで、先生の「荒凡夫(あらぼんぷ) 一茶」という講演を企画していることを知った。

新聞、本、テレビではいつもお目にかかっているのに、先生の肉顔や肉声には接したことがない。

もちろん、白水社から出たばかりの同名の本を読んで駆けつけた。

驚いたのは、あんな難しい句を好むのは男性が中心だろうと思っていたのに、会場に多かったのは、女性、それも高齢の女性だった。

女性俳人が増えたというのは読んだり、聞いたりしていた。

先生は、12年9月に93歳を迎える。最近、初期ガンの手術を受けたとは思えぬほど元気一杯。

この講演でも、「季語がなければ俳句ではない」というのは「ホトトギス派の暴言」と強調された。いつもの持論である。別の講演では「季語などはノミのへそみたいなもの」と切り捨てゝおられた。私は、旧仮名遣いなども論外だと思っている。

それでは、「荒凡夫」とは何か。

一茶が還暦を迎えたときに作った

 まん六の春となりけり門の雪

の添え書きに出てくる言葉という。

先生は「自由で平凡な男」と読み解いておられる。

一茶に

 十ばかり屁を捨てに出る夜長かな

という句がある。

先生の言われる「生き物感覚」の代表句の一つ。知らなかった私はうなった。


蜷川幸雄  vs こまどり姉妹 芸術劇場

2012年01月31日 12時29分10秒 | 文化・美術・文学・音楽
3

蜷川幸雄が率いる若手の「さいたまネクスト・シアター」は12年2月20日から3月1日まで「彩の国さいたま芸術劇場」で第3回公演に、シェークスピアの「ハムレット」を上演した。

それにこまどり姉妹が登場した。「♪お姉さんのつまびく三味線に 唄ってあわせて今日もゆく ・・・」で始まる「三味線姉妹」で売り出したあの双子姉妹である。

勉強などせずサボッてばかりだったが、英文学をかじっているので、「えっ。ハムレットにこまどり姉妹!」と驚いていると、「NINAGAWA千の目(まなざし)」という「蜷川幸雄公開対談シリーズ」の第24回で、蜷川とこまどり姉妹が対談するというチラシが目に入った。

どちらの方もお目にかかったことはない。好奇心だけは人一倍なので、ハガキで申し込んだら、運よく当たって、1月29日(日)正午から1時間の対談に出かけた。

小ホール定員346人は満員。老人ばかりかと思っていたら、女子高校生らを含め若い人の姿も見られた。

北海道釧路生まれの双子姉妹は1938、蜷川は1935年生まれ。私は1939年生まれで、ほとんど同じ年代だから興味津津だ。

蜷川の短い質問に姉妹が答える形で、姉栄子、妹敏子ともども、まさしく「話すも涙、聞くも涙」の、極限まで貧しくかった、デビューまでの苦労話を本当に涙ながらに語りに語った。この手の話は語り慣れているのだろう・

借金で夜逃げして、小学校5年、11歳で門付け芸人から夜の街の流しへ。仕事の後の深夜、先輩の流しがおごってくれた屋台のラーメンが最高のご馳走だった。貧しくて当時一杯15円のラーメンが食べられなかったのだ。

姉妹には「♪あたたかいラーメン 忘られぬラーメン・・・」と始まる「涙のラーメン」という歌がある。本人も、流しの苦しい経験を持っていた遠藤実の作詞・作曲。涙なくしては聞けない曲だ。

二人は、13歳で上京して山谷に転げ込み、浅草で流しているうちに、偶然、遠藤実に歌を聞いてもらい、世に出た。

芸術劇場の映像ホールでは、この日まで音楽ドキュメンタリー「こまどり姉妹がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」(片岡英子監督)を上映していた。このラーメンの部分は、対談のスクリーンでも上映された。

なぜ蜷川は、このような生い立ちのこまどり姉妹の起用を思い立ったのか。意表を突くというか、奇想天外というべきか、蜷川一流の演出だけではなさそうだ。

「僕らの演劇は、こまどり姉妹の3分間の歌声に匹敵するほど内容が濃いのだろうか。人生の底辺からはい上がってきた人たちのまなざしに、我々の舞台は耐えられるのか、そこをちゃんと点検したい」と蜷川は「千の目」のパンフレットの中で述べている。

蜷川にとって、「置き去りにされたかに見える民衆の姿の象徴」がこまどり姉妹なのだ。

突然思いついたアイデアではないようだ。こまどり姉妹は、本人も亡き父も二代続きのファンで、その起用は演出を始めた頃から考えていた。姉妹が出演を受けてくれたときは感動したという。姉妹も同じ思いだったと答えた。

「私の演出史上最大の事件だ」と蜷川。それは蜷川だけではなく、日本の演劇史上でもそうかもしれない。

ハムレットのどの場面で三味線姉妹が登場するのか。それが知りたくて行ったのに「それは最後まで秘密」。蜷川のうまさである。それを確かめに本物のハムレットを見に行きたくなるではないか。

定年後10年余、PR会社の手伝いをした。そのうちPRの重要性を知り、今でも定期的にPRについての原稿を書いている。

この対談を見て、蜷川は「日本最高のPRマンの一人」だと思った。「千の目」シリーズは次の公演の格好のPR手段だ。小劇場ではなく、商業演劇を担う責任者として当然だろう。日本PR大賞の候補になる資格は十分にある。

世界最高のPRマンだったアップルの故スティーブ・ジョブズに身支度も似ている。

故蜷川幸雄氏 川口市

2011年12月31日 12時30分11秒 | 文化・美術・文学・音楽



なにしろ東京の隣だから、埼玉県に一時的にせよ、住んだことのある作家や画家など“ちょっとだけ埼玉”文化人はけっこう多い。だが、この県に生まれ、育った生粋の県出身の文化人は少ないのが実情だ。

「生粋」をどう解釈するか。江戸っ子の場合はよく三代目以上という。三代目以上となると、最近では出入りの多いこの県では見つけるのがなかなか難しい。生まれ、育ちだけでよければ、演出家の蜷川幸雄は生粋の県出身文化人の一人だ。

両親は富山の貧しい農家の生まれ。父は小卒で東京・隅田川界隈の洋服屋で修業、川口で洋服の仕立屋を営んでいた。

川口には、国内最大規模のオートレース場が今でもある。父親は、競馬の馬主に当たるオートレーサーのオーナーだった。羽振りの良さがうかがえよう。

1935年10月15日、今はマンションが林立しているけれど、かつて「キューポラの町」として知られた鋳物の街川口市のJR川口駅近く本町3丁目に生まれた。2015年には80歳である。姉一人、兄三人の五人兄弟の末っ子だった。

10年10月、演劇の演出家として初めて文化勲章をもらった際、「川口の街と人が自分の原点で、埼玉に支えられてここまでやってこられた」と述懐している。

「子供の頃は、当時はきれいだった荒川や芝川で泳いだ。40歳までいたので、言葉が汚いとか、荒っぽいとか、目線の低さとか、感性の基礎はだいたい川口風」(産経新聞埼玉版との11年新春インタビュー)。

今は東京都久留米市に住みながら、職人の街川口に対する愛着を表明している。結婚後、川口市の家賃2万円ほどの公団アパートに住み、女優の奥さんの稼ぎに頼って、二人の娘を育てる“主夫”も経験している。

文化勲章授賞の電話も、台所で皿洗いをしている時だったという。

10年には川口市の「市民栄誉賞」、09年には埼玉県の「県民栄誉賞」を贈られた。
        
幼い頃から本を読むのが大好きだった。鋳物の街だから、男の子はベーゴマが好き。ところが、これが大の苦手。メンコも川泳ぎも釣りも大嫌いだった。

その代わり、演劇好きの母親が幼い頃から、歌舞伎や文楽、新劇、宝塚の芝居、オペラ、バレエ、映画に連れて行ってくれたので、演劇への下地が培われた。

抜きん出て成績が良かったので、同じJR京浜東北線沿いにある東京都荒川区の私立の名門開成高校へ進んだ。

開成に入って、一人で新劇や映画を見歩き、シェークスピアなどを読んでいるうち落第もした。油絵を描くようになって、東京芸大を受験したものの、失敗した。

新劇はたくさん見ていたので、1955年、劇団青俳のオーディションを受けたら合格、一番年下の19歳で研究生になった。サラリーマンには向かないと考えていたからだ。ところが、演劇の猛勉強をしても上達しないので、「大した俳優にならないまま」演技に見切りをつけて退団した。

68年に仲間と「現代人劇場」を結成して、69年33歳後半、清水邦夫作の「真情あふるる軽薄さ」で演出家としてデビューした。演出は独学だった。

仲間から非難されたが、小劇場の世界から、74年に「ロミオとジュリエット」で帝劇や日生劇場などで仕事する商業演劇に打って出た。

しかし、観客の評価は最高なのに、批評家からは最低の評価。「それなら外国で公演してみよう」と、83年のギリシャ悲劇「王女メディア」のローマ、アテネ公演を皮切りに、海外へも進出した。

ロンドン、ローマ、ニューヨーク、アムステルダム、カイロ、香港、さらに11年の韓国公演などで「世界のニナガワ」へと成長した。

最初のうちは外国人に受け入れられるだろうかと心配で、胃潰瘍になったり欝(うつ)みたいになったりもした。

「NINAGAWAマクベス」も絶賛された。92年にはシェークスピアを演ずるロンドン・グローブ座芸術監督の一員になり、02年には英国から「名誉大英勲章第3位」を授与された。

ギリシャ悲劇やシェークスピアを歌舞伎や能などの日本の伝統芸の技術を使って演出した。

04年度文化功労者、10年度文化勲章。

06年には彩の国芸術劇場の芸術監督に就任、高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」、若手の「さいたまネクスト・シアター」を立ち上げた。98年から芸術劇場でシェークスピア全37作品の上演を目指していた。16年12月には、「1万人のゴールド・シアター2016」の総合演出を目指し、65歳以上の出演者を大募集中だった。

09年に県民栄誉賞、10年には川口市民栄誉賞。

心臓手術をしたこともあるのに、「物議をかもす演出家でいたい」と元気。ここ数年、年間7~10本を演出 2作同時に稽古が進行することもあった。

演技指導は「千本ノック」と呼ばれるほど厳しいので有名。「口より先に物が飛んでくる」と言われたほど、俳優に灰皿やイスを投げ、机をひっくり返し、怒鳴りつけたりした。劇作家への敬意から原則として戯曲には手を加えなかった。劇作家の苦労を知っていたからだ。

近年は闘病しながら演出を続け、15年12月に体調を崩し、入院していた。16年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全で、東京都内の病院で死去した。告別式は16日正午、東京都港区南青山青山葬儀所で。喪主は妻で女優の真山智子(本名・蜷川宏子)さん。写真家・映画監督の実花さんは長女。

 

 

 


蜷川幸雄 さいたまゴールド・シアター 芸術劇場

2011年12月25日 10時20分38秒 | 文化・美術・文学・音楽



小学校の頃から映画きちなので、まともに演劇を見たことがない。さいたま市中央区(元与野市)に、演劇を主とする「彩の国さいたま芸術劇場」ができた時も、建物を眺め、受付の辺りをちょっとのぞいて見ただけだった。

この劇場は、埼京線与野本町駅西口から徒歩7分の距離にある。オープンが1994年。14年で開館20周年になる。地上4階、地下2階。演劇などの大、小ホール、音楽ホール、さらに映像の専用ホールを持ち、稽古場、練習場、舞台芸術に関する資料室もある。外観も城砦のように堂々としている。国内最高レベルの舞台劇場という触れ込みだ。

舞台設備機器の更新やバリアフリー対策、外壁補修工事をして11年10月リニューアルオープンした。

川口氏出身の日本を代表する演出家の一人、故蜷川幸雄が06年来、この劇場の「芸術監督」を務めていた。

リニューアルオープン後の初公演が宝塚のトップスター安蘭けいを起用した「アントニーとクレオパトラ」だった。蜷川はこの劇場で、シェークスピアの全戯曲37をすべて上演しようとしていて、没後32番目の「尺には尺を」が常連された。

蜷川がこの劇場でやっていたのはシェークスピア・シリーズだけではない。

55歳以上をメンバーとする日本では唯一、世界でも珍しい高齢者だけの劇団「さいたまゴールド・シアター」を06年に立ち上げた。

11年12月には6日から20日まで第5回公演の「ルート99」を披露した。

10年に文化勲章を受けた蜷川の演出に加え、「日本のチェーホフ」とも呼ばれ、いま人気の岩松了の書き下ろしというから、興味をそそられた。

そのうえ、「ゴールド・シアター」の団員42人の平均年齢が72歳という親近感もあって、18日の日曜日午後の公演を見に出かけた。

団員は、06年公募の際、応募した1200人以上の中から厳選された。女性26、男性16と女性の方が多く、東芝府中工場に44年勤続、東電集金課所属、市役所職員、NHKアナウンサー、教員、会社役員、主婦と、経歴はさまざま。

稽古をこの劇場でするので、地元の埼玉県在住者が18人、ついで東京が多く神奈川、千葉、栃木、茨城と関東各県から来ている。

16年で結成以来10年になったので、平均年齢77歳から最高齢90歳という高齢国日本を先取りするような年齢構成になっている。

岩松氏は、このシアターの07年の第一回公演「船上のピクニック」の脚本も手がけた。

「ルート99」は、沖縄の基地を舞台にしたやや難解なドラマである。

驚いたのは、補助席が出るほどの人気で、入場券も当日、一時間近く行列してやっと手に入った。

観客は老人が多いのだろうと思っていたら、大間違い。補助席の周辺は若い人ばかりだった。

正面の天井下にしつらえられた特設舞台から始まり、すり鉢状、半円形の観客席の底にある舞台の周囲、観客席の階段、さらには補助席の列の前と、役者たちはセリフを大音声で発しながら動き回り、小ホール全体が舞台といった感じ。その体力と音声に圧倒された。

ポーランドの演出家カントールの主宰していた老人劇団に刺激を受け、シルバー(銀)より上のゴールド(金)と名づけた。生活者として経験を積んだ人たちの力を借りて、これまでとは違う新しい演劇をやろうと思った。稽古場は「老い」との闘いで、血圧計も用意してある・・・

と廊下の壁に掲示されている回顧写真展の「蜷川語録」の中にあった。

蜷川はこの劇場で、次代の日本演劇界を支える人材育成のため、09年からこの劇場で若手演劇集団「さいたまネクスト・シアター」も立ち上げていた。

こんな劇場が自転車で行ける距離にあるのも埼玉県のありがたさである。駅から劇場までの通りは、「アートストリート」と名付けられ、主演級の役を務めた俳優の手形のレリーフが20台以上並んでいて、さいたま市中央区では、70代ほどまで増やす予定だという。
 


 一人当たり図書館貸出数で日本一 さいたま市

2011年11月28日 09時22分58秒 | 文化・美術・文学・音楽

一人当たり図書館貸出数で日本一 さいたま市 

さいたま市の図書館にはよく出かける。東京へ通勤する「東京県民」当時は、週末だけだったが、今では、自宅で購入している以外の新聞のチェックに天気が悪い日を除けば、ほとんど毎日出かけている。

インターネットでできるではないかという人もいる。だが新聞は、紙面の中でどう扱われているか、その価値判断も分かるし、写真も記事と一緒にコピーできるので、後で探す際に便利だ。それに、新聞で見るのはニュースだけとは限らない。

ちょっと前、「さいたま市の図書館数や人口一人当たり貸出冊数が日本有数だ」という小さな新聞記事を読んだ記憶があったので、中央図書館の責任者に頼んで、08年度の18の政令都市の図書館の状況を比較する数字を見せてもらった。

人口約122万のさいたま市には、図書館が大阪に次ぎ23ある。市民1人当たり貸出数(年間)は8.7冊と政令指定都市の中で1位である。

蔵書冊数(雑誌や週刊誌は除く)は横浜、大阪に次いで3位、人口1人当たり蔵書冊数は静岡に次いで2位、個人貸出総数は大阪、名古屋、横浜に次いで4位。

政令指定都市になる前、人口40万人以上の都市の比較でも、さいたま市の中核をなす浦和市は、「図書購入費にも恵まれ、人口1当たり貸出冊数は日本一だった」というから、まさに文教都市の面目躍如である。

それ以外にも理由がある。市の面積は16位(大阪は15位)と小さい。1館あたりの蔵書冊数は13位と、図書館の規模は小さいながら、数が多いので、その密度は大阪に次いで2位、つまり、図書館が身近にあるので利用しやすい点も挙げられるという。

私の場合もママチャリで一っ走りすれば、4つの図書館が使える。10年から全館合計で30冊まで借りられるようになった。

政令都市ではさいたま市がトップながら、県単位となると、滋賀県が公共図書館の貸出冊数が08年度まで七年連続トップで「図書館先進県」とされる。県内に48館あり、県民一人当たり8.69冊だ。

滋賀県は30年前は全国最低レベルだった。80年に「移動図書館」など先進的な取り組みで知られた東京都日野市の図書館長を、新築移転した県立図書館の館長に招いたのをはじめ、各市町も人材を全国から集めた。図書館を増やして司書を多く採用、08年度の職員に占める司書の割合は82%と、他の都道府県を大きく引き離している。

立原道造ヒアシンスハウス さいたま市別所沼

2011年11月26日 20時33分25秒 | 文化・美術・文学・音楽


風信子――と書いて何と読む? 漢字検定めいた書き出しだで恐縮だが、「ヒアシンス」である。「ヒアシンスハウス」が近くにあるのを知ったのは、11年のことだった。

さいたま市南区のフェスティバルが別所沼で開かれるというので、ぶらぶら出かけてみると、子供たちが「南区魅力発見かるた」をやっている。「南区にそんな魅力のある場所があるのかな」と、写真付きのいろはかるたをのぞいてみると、「り」は「緑陰に文学の風ヒアシンスハウス」とある。

どこかで聞いた名前だなと錆ついた記憶をたぐると、数年前、東京都文京区弥生の立原道造館で見た<ヒアシンスハウス・風信子荘>のことを思い出した。

立原道造は、1939年3月29日、筆者の生まれた1日前に24歳8カ月で夭折しているので、気にかかっている詩人である。

死の直前、別所沼のほとりに5坪ほどの小さな週末住宅を建てようと(道造は建築家でもあった)、何枚もの設計図や住所を印刷した名刺までつくり、友人に配っていたが、夢かなわず肺結核で死んだ。

なぜよく通った軽井沢ではなく、別所沼だったのか。年上の詩友の神保光太郎が近くに住んでいたことと、東大建築学科の親友に浦和高校出身者がいたことなどのためらしい。

その遺志をついで、さいたま市から借りた地域の文化活動の拠点となる施設として 有志が全国から募金、04年にできた。木造で多くの人を収容するには狭すぎるが、いろいろな文化的な催しが開かれているという。(写真)

何も知らなかった無知を恥じながら、ぼんやり早春の陽にたたずんでいると

 夢はいつもかへっていった 山の麓のさびしい村に・・・

「のちのおもひに」の最初の一節が頭をよぎる。初めて読んだのはいつの日のことだったか。





ブックアート(本をめぐるアート) うらわ美術館

2011年11月24日 16時22分36秒 | 文化・美術・文学・音楽


一昔前のように箱入りの百科事典や文学全集を応接間のガラス戸の書棚に家具のようにずらりと並べ、読むというより飾っておく蔵書家がめっきり減った。

百科事典はパソコンで代用できるし、文学全集も全集を集めたくなるほどの作家も見当たらない。それに、安価に基礎知識が得られる新書の全盛期で、本そのものが美術品であるという考え方からは遠い時代になった。

こんなご時勢に、さいたま市のうらわ美術館では、「ブックアート」(本をめぐるアート)のコレクションをしていて、「アート(美術作品)としての本」を1000点以上所蔵している、と知ったのは最近のことだ。

浦和市当時、2000年開館の後発の美術館として、何か独特の個性を持たせたいと、昔からの文教都市で「本好きのまち」だから、本に関連したブックアートで行こうということになったらしい。

ブックアート収集を柱の一つに掲げる日本で唯一の館になっている。地域美術館として、さいたま市ゆかりの美術家の作品も収集している。この二つが柱なのだ。

この美術館は、旧中山道沿いのホテル「浦和センチュリーシティ」の3階にある。常時、全収蔵作品を展示しているわけではない。

11年11月23日の勤労感謝の日に、北九州市立美術館との共同企画で「アートとブックのコラボレーション展」という展覧会が、来年1月22日までの日程で始まった。これまで何度か同じようなテーマで展覧会を開いてきたという。

なにしろ初めてだから、絵本とか挿絵本とか、本の表紙、見返し、扉、カバーなどに意匠を凝らして装丁された本が並んでいるものと漠然と想像していた。

表装にこだわった「美装本」という言葉もあるとおり、日本の製本技術の水準が極めて高いことは知っていたからだ。

その類のものも、もちろんあるものの、素人としては「果たしてこれも本なのか」と思いたくなる作品が多数あった。

本と言えばこれまで、字が主体で字を読むもので、絵とか挿絵とか、装丁とかは、字の付属物、引き立て役だと考えてきた。

ここで展開されている世界は、その逆で、付属物や引き立て役が主で、文字は従のもの(ない場合も)が多いのだ。

読む本ではなく、ブック・オブジェだと考えたほうがいい。なにしろ焼き物や金属製の本(写真)もあるのだから。

「美術作品としての本」には、なじみがない。調べてみると、ピカソが20世紀で最も偉大なブックアーティストの一人で、美しい絵の版画を挿絵とした本を150冊以上描いているという。

このような本はArtist’s Book(アーティスツ・ブック)と呼ばれるものだ。マチスやミロ、シャガールのも展示されていて、カンバスの絵とは違った魅力がある。

この展覧会を見て、「本」についての考え方が混乱してきたので、学芸員の方に「ブックアートに関する美術館の考え方を書いたものはありませんか」と尋ねたら、この美術館の設立から関わってきた森田一学芸員の『本をめぐるアートについて』と題する小論文をコピーしていただいた。この中に

「ここにある本の作品は、普通の本ではない。紙でできているとは限らないし、頁が綴じられ冊子になった本とも違う。コミュニケーション・ツールとして機能する本でもない。

作品の中には、現実の機能性や実用性など、メディアとしての性質が抽象され、捨象された本の象徴的な姿が見え隠れしている。作品から看取されるものは、作品に内在し、そこから表出する様々な『本の象徴性』であろうと思う」

「本が美術作品になったのか、美術作品が本になったのかということは、さして問題ではない。それが、読めるのか、私たちが知っている本の形をしているのかということも重要ではないだろう。本に託された作品が、本という存在やそれがもたらす現代の問題をどのように喚起し、それにどのようにつながってゆくのかということが大切なのだと思う」

というようなことが書いてある節があって、なるほどとうなずいた。「百聞は一見にしかず」。実際に見てみると、いくぶん分かってくる世界がある。

国際ハープフェスティバル 草加市

2011年11月21日 14時55分15秒 | 文化・美術・文学・音楽


西洋ならともかく、日本ではなじみの薄い楽器「ハープ」のことを、どれほどご存知だろうか。

たまにオーケストラを聞きに行くと、大きな楽器があることは見てはいても、その独奏や合奏も聴いたことはない。

私がハープ=竪琴で忘れられないのは、市川昆監督の映画「ビルマの竪琴」で、水島上等兵がインコを肩に、小型のビルマ式竪琴を抱えている姿である。

11年11月19日(土)、音楽都市だと宣言している草加市の文化会館で国内最大級の「国際ハープフェスティバル」のファイナルコンサートが開かれるというので、驚いて聴きにいった。

会場は後部を除いて女性を中心にほとんど埋まっていて、毎年すでに23回になるというので二度驚いた。

最終日とあって、「第23回ハープコンクール」の入賞者の表彰式から始まった。ハープコンクールは、アジアではここだけ。一流ハーピスト(演奏者)の登竜門になっていて、韓国や中国からも応募者があるという。.

今回はプロフェッショナル部門が対象で、52人の中から武蔵野音大4年の佐藤理絵子さんが1位に選ばれた。その演奏が、私にとってハープの独奏を聴く初めての体験になった。

世界的なハーピスト、シャンタル・マチュー氏(フランス 02年第8回世界ハープ会議議長)の独奏もあり、「リラックス時に出るアルファ波の出現を促す」というハープの音色を実感できた。

圧巻は、グランドハープ(大型ハープ)19台が、舞台に勢揃いしたフィナーレの「グランドハープ・アンサンブル」だった。 (写真)

指揮者で国立音大名誉教授の増田宏三氏が、第一回のフェスティバルのために作曲した「菊の花の祭り」という日本風の曲で、初めて見る大合奏の迫力に圧倒された。毎回最後に演奏される。

「なぜ草加で国際ハープフェスティバル」?  この疑問をいろいろ聞いてみると、始まった1989(平成元)年当時、草加市原町にある上野学園短期大学に音楽学部があり、日本ハープ協会会長も務めたヨセフ・モルナールさんが、ハープ専科で教えていた。知り合いの当時の今井宏市長が「何か草加にも文化的なことを」と始めたのだという・

このフェスティバルは、文化会館の枠の中にとどまらない。11月初めからお寺や病院、駅、小学校で“出前コンサート”が開かれ、草加は「ハープのまち」(田中和明市長)になり、知られるようになっている。

市内には市民による「レバーハープ・アンサンブル」などもあり、文化会館などでハープ教室も開かれている。

市は1993(平成5)年

綾瀬(川)のほとりにメロディー流れ
草加のまちなかにリズムあふれる
人々の心にハーモニー生まれ
・・・

という「草加市音楽都市宣言」を制定した。

音楽は、私には歌謡曲くらいしか分からない。だが、小さい頃から音楽は何でも聴くのは大好きで、「煎餅の草加」に対する見方を改めた。

ハープの弦は最初、弓の弦だったと伝えられ、世界の歴史の中で、最古の楽器の一つ。旧約聖書には、ダビデ王も奏でたとされる。


ダビデ王もびっくり草加の弦の音 柳三


「原爆の図」 丸木美術館 東松山市

2011年08月04日 07時51分13秒 | 文化・美術・文学・音楽


広島市生まれながら、その時は満州の大連にいて、難を逃れた。広島駅近くの何も残っていない元の社宅跡や、原爆記念碑は学生時代以来、何度も訪ねた。

長崎も同様で、永井隆博士の家では、余りの小ささに涙を禁じ得なかった。

このため、「丸木美術館も訪ねなければならない」という義務感に駆られていた。それでもこの年まで行かなかったのは、その悲惨さに耐えられないと気が重かったからだ。

それが、思い切って行く気になったのは11年。8月6日が近づいてきたのと、福島第一原発の暴発のためだった。

「原発と原爆は、何が変わろう」。同じではないか、人間は原爆を動力とする原発を制御できるのか、という思いである。

広島の太田川近くの農家に生まれ、前衛的な水墨画家だった丸木位里(いり)は投下の数日後、原爆の悲惨さを目撃、洋画家の俊(とし)夫人もその一週間後合流した。

「原爆の図」は夫妻の共同制作で、30年以上にわたって描かれ、全部で15部からなる。縦1.8m,横7.2mの大きな屏風絵で、水墨や日本画の顔料が使われている。

描かれているのは、原爆で死んでいった人間たちの姿である。これが「人道に対する罪」でなくて何であろう。体験者からは「この絵はきれいすぎる」との批判もあったという。

夫妻は、反原爆とともに反原発を唱え続けた。広島、長崎の被曝者がつくる日本原水爆被害者団体協議会が、明確な「脱原発」方針を決めたのは11年夏だから、その先見の明が分かる。

反原発の具体的な行動もした。1989年、福島第二原発のポンプ損傷事故をきっかけに、電気料金の原発分24%支払い拒否のため丸木美術館ヘの送電を一年以上停止された。その翌年、太陽光発電コージェネレーションシステムを設置したのは、よく知られた話である。

俊は89年の「丸木美術館ニュース」に、「原発止めないと原発に殺される」を連載するなど、原発を「ゆっくり燃える原爆」だとして、事故の不安や放射能の恐ろしさを訴えていた。

1967年にオープンしたこの美術館は、二階の展示室には天窓があり、自然光が入る。最初から電気をできるだけ使わない設計になっている。電気使用量をなるべく抑えるため、夏場は扇風機で、エアコンを設置する予定は無いという(埼玉新聞11年5月26日付による)。

夫妻は21世紀を待たず、高齢で死亡した。福島第一で起きたことを知ったら何と言うだろうか。

夏場、扇風機なしでもしのげるのは、都幾川のほとりにあるこの美術館の立地のためである。さわやかな川風が吹きこんでくる。

美術館のミニ・ガイドブックによると、水俣病で知られる作家の石牟礼道子さんは「ここは、むかしむかしの国ではあるまいか。万葉あたりの郎女(いらつめ=若い女性)たちの住むところ」と賞賛した。

一羽や二羽ではない。ウグイスの声がしきりに林の中から響く。他の鳥の声も聞こえるのだが、何の鳥なのか同定できないのがもどかしい。

「まわりの豊かな環境は、丸木夫妻の残したもう一つの、とても重要な“作品”でもあるのです」と、このミニガイドは結ばれている。

訪ねると、まさにそのとおり。埼玉県内、いろいろ訪ねた中でこれほど素晴らしいところは初めてだった。(写真は二階からみた周囲の風景)

丸木夫妻が知人に教えられ、初めてこの地を訪れた時、眼下に流れる都幾川を見て、「広島の太田川上流に似ている」と思って、住居と美術館を建てようと決めたという。

原爆の図は、単に被害者の立場から描かれたものではない。「戦争の加害性」にも目を向け、原爆投下後の広島で起きた米兵捕虜虐殺事件や日本に強制連行されてきた朝鮮人の被曝問題もテーマとして扱っている。

広島でそんな事件があったことはこれまで知らなかった。広い美術館の敷地の隅に、関東大震災の歳、東京から埼玉に逃れてきた朝鮮人が流言飛語に基づき虐殺された事件を悼み、「痛恨の碑」が建てられている。

熊谷の70~80人を筆頭に本庄、神保原など県内全体で虐殺されたのは220~240人と推定されている(11年9月2日 埼玉新聞)。

この他、位里の広島の実家の一部を移築した「原爆観音堂」、晩年の夫妻のアトリエ「流々庵」、美術館の入口の向かいにある「八怪堂」、二人の遺骨の一部も埋葬されている「宋銭堂」なども興味をひく。

訪れた7月末、二人の絵本原画展も開かれていた。生涯に2百点以上の絵本や挿絵を残した俊夫人の作品の素晴らしさに驚いた。

「ひろしま忌」の8月6日は、入場料無料。

原発事故による放射能放出の実態が明らかにされていく中で

 原発が原爆になる地震国

という最近の川柳が頭にこびりついて離れない。

「原爆の図 丸木美術館 ミニ ガイドブック」参照






下総皖一 童謡のふる里 加須市大利根町

2011年07月11日 18時37分06秒 | 文化・美術・文学・音楽
下総皖一 童謡のふる里 加須市大利根町

一度、この町を歩いてみたかった。太極拳を献身的なボランティアから習っていた中学校の体育館の壁に校歌がかかっていた。よく見ると、作曲・下總皖一(しもおさ・かんいち)とあった。さいたま市立白幡中学校である。

この人の名前は、その字も読み方も難しい。このため「童謡のふるさと」を自認するこの町では「しもおさ」とわざわざルビを振っている。有難いことである。

この季節によく耳にする童謡の「たなばたさま」の作曲者に敬意を払うため、最近はやりの表記法「7・7」(七夕)の次の日の11年7月8日に訪ねた。東隣の旧栗橋町で「静御前の墓」を訪ねた足を延ばした。

さすが「大」がつくだけあって広い町である。利根川の大堤防の南側に整然と区画された水田が広がる。さすが「埼玉一の米どころ」である。「草いきれ」ならぬ青々とした″稲いきれ“といった風情である。

田んぼの中では、アメンボウもオタマジャクシも元気に動き回っていた。かつて、日本の水田地帯にはこんな広大な風景がどこにも広がっていた。

大利根町は利根川とともに生きてきた。今も生きているのは、カスリーン台風の記憶である。

町を歩くと、電信柱の中腹に、利根川上流河川事務所による1947(昭和22)年の浸水の記録が貼られている。2.3mとあるのもあるから、普通の人間なら溺れてしまう水位だ。

利根川河畔のカスリーン公園にある「大利根防災センター」の掲示によれば、利根川は大利根町などで決壊、大利根町側の決壊で東京の葛飾区、江戸川区まで洪水が及んだ。家屋の浸水約30万戸、倒半壊3万1000戸、死者は1100人を超えたとある。決壊口跡には記念碑が残る。

大利根町に入ると、「童謡のふる里 おおとね」の掲示がどこにも目に付く。午後6時になると、防災放送で田んぼの上を「たなばたさま」「かくれんぼ」「野菊」の曲が流れた。朝8時、昼、夕6時の三回だ。

大利根水防センター内の「おおとね童謡のふる里室」には、作曲した500曲もの校歌のコピーなどの資料が展示されている。開館は土、日、祝祭日だけ。そこから遠い「童謡のふる里図書館『ノイエ』」の一室には、愛用のピアノなどが展示されていた。ここには09年の開室から15年5月までに来場者が1万人に達した。

童謡だけでなく、ドイツ留学後、日本の近代音楽の基礎を作った人で、「和声学の神様」といわれる。

筝、三味線など日本の伝統音楽も作曲し、全作曲数は2~3千曲に上るという。埼玉県北には、こんなケタ外れの人が何人か生まれている。


写楽と法光寺 越谷市

2011年06月24日 19時08分08秒 | 文化・美術・文学・音楽


暇な老人にとって、NHKの「BSプレミアム」や「Eテレ」ほどうれしいものはない。現役の頃は、テレビの番組に最後までじっくりかじりついている時間がなかったからだ。民放のように、今さら買いたくもない電化製品や、老人向けのサプリメントのコマーシャルなどに中断されないのが、特にいい。

最近、江戸の浮世絵師に興味を持っている。11年5月12日の「写楽 解かれゆく謎」は実に面白かった。

ギリシャで写楽肉筆の扇面画が見つかり、それが真筆と認定された。その筆使いから“謎の絵師 写楽”の正体が分かってきたというものだった。

東京国立博物館で5月から6月中旬まで開かれた「特別展 写楽」の前売券は、コンビニで買って行った。昔のようにピアの店を探すこともなく、コンビニで買える時代だから便利になったものだ。

折りも折り、埼玉のことを書いていることを知っている50年来の友人から、「写楽の墓が越谷市の寺にあるというから訪ねてみたら」との葉書をもらった。

NHKのBS、東博も見た後、埼玉に本格的な夏が到来した6月23日、くだんの寺を訪ねた。

寺は、東武伊勢崎線のせんげん台駅から、徒歩で20分程度の越谷市三野宮の田んぼの中にあった。独協埼玉高(中)学校のすぐ近く。この駅は、旧日本住宅公団の武里団地の乗降駅で、昔、住んでいたことがあるので懐かしかった。

浄土真宗本願寺派、「今日山法光寺」。今日山の名前どおり、お堂も裏のお墓もピカピカなのは、東京から1993(平成5)年に引っ越してきたばかりだからだ。埼玉県内に多い疎開派、移築派の一つである。隣にこれも新しそうなお寺もある。

寺の沿革や写楽の記念碑の説明文を読むと、あらましのことは分かる。

寺は何度も火災や災害に遭っているようだ。1617(元和3)年、日本橋浜町に本願寺浅草御坊の塔頭として創建された。1657年の明歴の振袖火事で焼失、築地に移る。

1923年の関東大震災で被災、再建したものの、1988年、今度は不慮の火災で本堂を焼失、越谷移転が決まった。空襲の被害が記されてないのが不思議なくらい、火災に縁がある。

この寺と写楽の関係は、東洲斎写楽と目される、「江戸八丁堀に住んでいた阿波候の能役者、斎藤十郎兵衛」の過去帳(檀家の死者の氏名、死亡年月日、年齢などを記入した帳簿)を、1997(平成9)年、徳島の「写楽の会」が、法光寺の現住職樋口円准氏(第十六世)の協力で、法光寺の資料から発見してからだ。

何度も火災に遭いながら、過去帳を守り抜いていたのだから、この寺は尊敬に値する。

記念碑の真ん中には、「写楽」の号の下に、大きくその過去帳の写しがある。「八丁堀地蔵橋 阿州(阿波)殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳 千住ニテ火葬」と記されている。1820年の過去帳である。

戒名は、「釋大乗院覚雲居士」。

写楽について、江戸の「増補浮世絵類考」の中で「写楽 俗称 斎藤十郎平衛 江戸八丁堀に住す 阿波候の能役者也 号東洲斎」の記録があり、それと合致したのである。

「写楽=斎藤十郎兵衛説」が実証されたわけだ。

斎藤家と菩提寺法光寺の関係については、1668年から明治初期までの約200年間に、およそ30人の記録が確認された、とある。

記念碑には、この過去帳を左右に囲んで、左に「太田鬼次の奴江戸兵衛」、右に「市川鰕(えび)蔵の竹村定之進」の大首絵の傑作中の二つが掲げられている。

大首絵(おおくびえ)とは、歌舞伎の役者絵を描く場合、舞台を背景にした全身像を描くのが普通なのに、上半身像だけを描く技法。

クローズアップなので、老いた役者の実像をそのままに描き出している。役者絵といえば、見た目が一番。それに反してリアルに真実を描こうとしたので、余り売れなかったらしく、活動期間はわずか10か月で、彗星のように現れて消えた。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが20世紀初頭、「レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界的な肖像画家」と激賞したように、海外での評価が高い。

私には肖像画というより、現代の日本の漫画家の源流のように見える。

「一介の能役者にこんなのが描けるはずがない。著名な浮世絵師が別名で描いたのではないか」と、葛飾北斎など何人かが擬せられたのは有名な話。

「真実はここにある」と、「法光寺の過去帳」は田んぼの中から叫んでいる。埼玉に関係して半世紀、「よくやった能役者」と称えたい。写楽が埼玉に引っ越してきてくれただけでうれしい。


清水かつら 和光市

2011年06月15日 10時42分22秒 | 文化・美術・文学・音楽
清水かつら 和光市

「清水かつら」と言われても、すぐにピンとくる人は多くあるまい。ところが、池袋が起点の東武東上線に乗り、成増駅と和光市駅に降り立つと、時間がうまく会えば、時計塔から子供の頃、聞いたり、歌ったりした懐かしい童謡のいくつかが響いてくる。歌詞を刻んだ歌碑もある。(写真は和光市駅前)

そう、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」「緑のそよ風」などの作詞家なのだ。

埼玉県の有名人には、大正大震災や第二次大戦の空襲で東京から避難して、住みついた人が多い。清水かつらもその一人で大震災の疎開族だ。病没する1951(昭和26)年まで住んだ。女性みたいな名前ながら、本名は「桂」と書くれっきとした男性。

童謡詩人のイメージとは裏腹に、仲間で太刀打ちできるものはないほどの酒好きで、「酒が飲めなくなったら終わりだ」とつぶやいて53歳で永眠した。脳溢血だった。3千編余の詩を残した。幼児時代のしつけで礼儀正しいダンディ。酒を飲む時も正座していたと伝えられる。

日本の童謡の全盛期は大正時代だった。「靴が鳴る」(弘田龍太郎作曲)は大正8(1919)年、「叱られて」(同)は9年、「雀の学校」(同)は11年、いずれも務めていた雑誌「少女号」(小学新報社)に発表された。

その編集長は、鹿島鳴秋で、その招きで入社したのだった。有名な唱歌「浜千鳥」(弘田龍太郎作曲)の作詞家だ。この人も埼玉県に関係のある人で、この詩ができた大正8年頃、桂と同じ東京都深川生まれの鳴秋(本名・佐太郎)は、妻と娘の三人で当時の浦和市(さいたま市)に家を新築して住んでいた。

「浜千鳥」は、「少女号」大正9年1月号に掲載。弘田龍太郎が曲をつけたのが、大正12年でレコードも発売された。

全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。

成増駅前の時計塔からは、かつらの歌とともにこの「浜千鳥」も流れる。「浜千鳥」のことは、このシリーズで前にも書いた。成増駅は、東京都側だが、かつらが通勤に使った駅である。

一度訪ねてみたいと思っていたが、11年の梅雨の合間に和光市のかつらゆかりの土地を訪ねた。

東京都との境界にあるこの市の東上線沿いは、急な阪が実に多いところだ。

成増駅に近い白子川は、第二次大戦後の1948(昭和23)年、よく知られる「緑のそよ風」(草川信作曲)ができた川として知られる。この歌はNHKラジオの日本のメロディーで放送されて、人気を呼んだ。

この川沿いには、住んでいた所なので、かつらにちなんだものが多い。遊歩道の一角には「生誕100年碑」、高台の白子小学校には「緑のそよ風」の歌碑、白子橋の親柱には「靴が鳴る」の歌詞が刻まれている。

この「靴が鳴る」は、戦前に米国の往年の名子役シャーリー・テンプルが歌ってヒット、進駐軍の将校が訪ねてきたことがあるという話を、今度初めて知った。

かつらが和光市に来たのは、二番目の母の里が現在の新倉にあったからだで、後に白子に移った。

現在の白子川は、お決まりの護岸工事で、「緑のそよ風」の歌詞にある

小川のふなつり うきが浮く
静かなさざなみ はね上げて
きらきら金ぶな 嬉しいな

のような風情はもちろん失われている。

「叱られて」の中に

あの子は町までお使いに・・・

という句がある。町は成増のことのようだが、「何を買い物に行ったのだろう」と、かねて疑問に思っていた。研究者によると、「ふすま(小麦の皮)」だという。今はダイエットに使われているようだが、昔は洗い粉に用いられていた。

「あんたがたどこさ」 川越市

2010年12月31日 11時53分14秒 | 文化・美術・文学・音楽
「あんたがたどこさ」 川越市

住んでいる所から近い、さいたま市の六辻公民館で毎年、「すこやかクリスマスコンサート」が開かれる。10年末も出かけた。もう9回目になるという。

この席上で、このコンサートのリーダーから「あんたがたとこさ」で始まる、あの懐かしい手まり歌が川越市生まれだという話を初めて聞いた。初めてというのは、私ぐらいなもので、知る人ぞ知ることらしい。いかに埼玉のことに無知なのか、われながら感心する。

そう言えば、先に「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ」という童謡も川越市生まれだと聞いて、どんな所かなと見に行ったこともある。

「あんたがたどこさ」の歌は、「肥後さ」「肥後どこさ」「熊本さ」「熊本どこさ」「センバさ」「仙波山には狸がおってさ・・・」と展開していく。

センバのところが、熊本版では「船場」、川越版では「仙波」になっている。

熊本には「船場川」はあっても、「船場山」「仙波山}はないという。歴史をみると、川越版に分がありそうなのだ。

戊辰戦争当時、上野の寛永寺で抵抗した彰義隊の残党を追って、官軍が川越城の近くの仙波山に駐屯していた。

平地の埼玉県だから、川越にも山らしい山はないものの、喜多院の隣の現在の仙波東照宮あたりは仙波山と呼ばれた。おまけに東照宮の主、徳川家康は「狸親父」があだ名だったので、歌詞にもぴったりだ。

仙波東照宮は、家康を祀る日本三大東照宮の一つである。

歌詞が熊本弁ではなく、関東弁だというのもこの問答歌の川越説の根拠になっている。

官軍の兵士に川越の子供たちが出身を聞いている様子を思い浮かべると分かりやすい。

一方、「通りゃんせ」の方は、川越城本丸御殿近くの「三芳野神社」 (写真)が舞台のようだ。境内の一角にある石碑には「わらべ唄発祥の所」とある。

三芳野神社は川越城の鎮守で、城内にあったため、一般には開放されていなかった。
天神さまを祭るこの神社に、城内に入って参詣できるのは、年一度の大祭と七五三の祝いの時だけだった。だから、「この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります」なのだ。

「通りゃんせ」とか「細道じゃ」という歌詞は、関東弁ではなく、関西や西日本方面のものではないかという指摘もあり、「うちこそ発祥地」の声はほかにも聞かれる。

「行きはよいよい 帰りはこわい」と庶民がおずおずと城内から出て行く姿も、実感があり、歌詞の内容が歴史的な事実とぴったりなのが、三芳野神社ではないだろうか。