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立原道造ヒアシンスハウス さいたま市別所沼

2011年11月26日 20時33分25秒 | 文化・美術・文学・音楽


風信子――と書いて何と読む? 漢字検定めいた書き出しだで恐縮だが、「ヒアシンス」である。「ヒアシンスハウス」が近くにあるのを知ったのは、11年のことだった。

さいたま市南区のフェスティバルが別所沼で開かれるというので、ぶらぶら出かけてみると、子供たちが「南区魅力発見かるた」をやっている。「南区にそんな魅力のある場所があるのかな」と、写真付きのいろはかるたをのぞいてみると、「り」は「緑陰に文学の風ヒアシンスハウス」とある。

どこかで聞いた名前だなと錆ついた記憶をたぐると、数年前、東京都文京区弥生の立原道造館で見た<ヒアシンスハウス・風信子荘>のことを思い出した。

立原道造は、1939年3月29日、筆者の生まれた1日前に24歳8カ月で夭折しているので、気にかかっている詩人である。

死の直前、別所沼のほとりに5坪ほどの小さな週末住宅を建てようと(道造は建築家でもあった)、何枚もの設計図や住所を印刷した名刺までつくり、友人に配っていたが、夢かなわず肺結核で死んだ。

なぜよく通った軽井沢ではなく、別所沼だったのか。年上の詩友の神保光太郎が近くに住んでいたことと、東大建築学科の親友に浦和高校出身者がいたことなどのためらしい。

その遺志をついで、さいたま市から借りた地域の文化活動の拠点となる施設として 有志が全国から募金、04年にできた。木造で多くの人を収容するには狭すぎるが、いろいろな文化的な催しが開かれているという。(写真)

何も知らなかった無知を恥じながら、ぼんやり早春の陽にたたずんでいると

 夢はいつもかへっていった 山の麓のさびしい村に・・・

「のちのおもひに」の最初の一節が頭をよぎる。初めて読んだのはいつの日のことだったか。






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