ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

画鬼・河鍋暁斎 その真価

2010年12月16日 09時53分47秒 | 文化・美術・文学・音楽


私がびっくりしたのは、この「釈迦如来図」を、日経新聞紙上で見た時だった。日経が、毎日曜日連載している2ページ通しの「美の美」欄で、10年7月に「画鬼、河鍋暁斎」と題して、上、中、下三回の特集を組んだのである。

釈迦が苦行中、やせ細り、あばら骨があらわな像には、仏教書などで何度かお目にかかった。だが、その手足の爪が、この図のように猛禽類か、猛獣のように伸びているは初めてだ。

「これはただ者ではない」と実感した。

その顔も西洋人風で、衣装や背景を変えれば、キリストの修行中と言っても通用するだろう。考えて見れば、釈迦は、インド原住民ではなく、西洋と同じインド・アーリア民族出身だから、当然と言えば、当然のことだが。

楠美さんが講演用に準備した資料を読むと、この絵は、前回に書いた肖像画の速描き競争に関係がある。

フランス・リヨンの富豪で、宗教の研究家でもあったエミール・ギメは来日中の明治9年(1876)、暁斎の絵と名を知り、お抱えの画家を連れて、暁斎宅を訪れた。その時に速描き競争があったのだという。

ギメとすっかり仲良くなってお土産に届けたのがこの図。ギメはその時の様子などを「日本散策―東京・日光」というタイトルで、帰国後1880年に出版。暁斎は生存中に海外でその名を知られる存在となった。

「修行していれば、爪が伸びるのは当たり前だろう」というのは、暁斎のユーモアに富む落語的な発想。釈迦の顔を西洋人風にしたのは、相手が西洋人だからという彼のサービス精神の表れだろう。

この絵は今、パリのフランス国立ギメ東洋美術館が所蔵。10年に金沢21世紀美術館に里帰りした。

「美の美」によると、これを再発見したのは、埼玉大学で教えていた山口静一・名誉教授と及川茂・日本女子大教授の二人。1987年と翌年、オランダのライデン国立民族博物館、大英博物館、米国のメトロポリタン美術館などを巡り、1千5百点もの暁斎を確認したという。

暁斎と交友のあった外国人は、お雇い外国人のフェノロサ(米)、キヨソーネ(伊)といった美術関係者のほか、医師のベルツ(独)など30人近い。

当時の日本人では、山岡鉄舟と親しく、勝海舟や栗本鋤雲、成島柳北、さらに徳富蘆花らとの付き合いもあったという。

楠美さんは、これほど外国で認められているのに、日本での評価が低い理由について①どの流派にも属さず、余りにも多才で何でもこなす画域の広さ②持ち前のユーモアや自分のことより客のことを考えるサービス精神の過剰が不真面目と受け取られた③小心者で酒の上で行き過ぎがあり、一貫した思想を持ちあわせなかった・・・などを挙げた。

描くことが根っから好きで、「過ぎたるは及ばざるが如し」の感があるという。

その真価は、内外の美術館で開かれた展覧会のキャッチフレーズを見れば分かる。「幕末明治の天才絵師」「鬼才」のほか、大英博物館のジャパニーズ・ギャラリー(1993年)では、「Demon of painting」とずばり「画鬼」。京都国立博物館(08年)では「絵画の冒険者」、東京ステーションギャラリー(04年)では「なんでもこいッ展だィ!」、東京都板橋区立美術館(85年)では「矯激な個性の噴出」だった。

「酔うて候」「酔郷に遊ぶ」を売り物にした書画会の展覧会もあった。

記念館は、今回、資料の表紙から借用したこの「文読む美人図」(明治21年頃)を初め、ざっと3千2百点を所蔵。住居を改造しているので、手狭で、一度に展示できるのは40~50点。2か月毎にテーマを変える方式で展示している。

訪ねる際は、「河鍋暁斎記念美術館」のホームページがあるので、場所や展示品を確かめるのに便利。木曜日定休。

画鬼・河鍋暁斎 「狂斎」

2010年12月15日 11時15分50秒 | 文化・美術・文学・音楽


なぜ、暁斎は普通の読み方であるはずの「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読むのか。

「狂斎」と書いていた字を「暁斎」に改めたからである。漢和辞書を引いてみると、暁には「きょう」という読み方もある。

それには1870(明治3)年10月に起きた一つの事件が関係している。

その頃、江戸時代から続いている「書画会」という催しがあった。著名な絵描きや書の達人が大きな料亭に集まり、入場料を払って入ると、好きな人に好みの絵や書を目の前で書いてもらえるという即売会である。「席画」とも呼ばれた。

最近でも街頭で似顔絵描きを時に見かける。これを大掛かりにしたものと考えればいい。筆の速さでは定評のある暁斎は書画会の人気者で、一日に150枚から200枚も描いたという。

西部劇は学生時代、何でも見た。そのヒーローは速撃ちのガンマンだ。暁斎は訪ねてきたフランス人画家とお互いの肖像画を描き合い、速撃ちならぬ速描きを競ったことがある。残された作品を見ると、フランス人のは暁斎の顔だけなのに、暁斎のは服を着た全身像である。どちらが速かったかは自明だろう。出来栄えもはるかに優れている。

狂斎はいつも「絵師は何でも描けなければならない」と言っていたとおり、浮世絵、美人画、錦絵、仏画、さらに戯画、狂画、風刺画、本の挿絵まで、どんな注文にも即座に応ずることができた。

余りにも多才で作品数が多いので、生涯何点描いたかは不明。「その百分の一も見つかっていなのでは」と楠美さん。3,4歳の頃見た曽祖父の描く速さを覚えているという。

速描きだけではなく、それぞれの完成度も高い。書画会では、客からすすめられる酒を2,3本空け、次の日に何を描いたか覚えていないこともあったとか。こんな暁斎を「まるでバッカス(ギリシャ神話の酒の神)がとりついているようだ」と、弟子のコンドルは評したほどだ。

コンドルとは、お雇い外国人の英国人建築家ジョサイア・コンドルのことで、東京のニコライ堂、美術館として復元された丸の内の三菱一号館、鹿鳴館などを設計した。コンドルは暁斎の下に入門して熱心に修行して腕を上げ、「暁英」の雅号をもらったほど。

暁斎は、「酒乱斎」「酒中画鬼」「雷酔」という画号もあったというから、まさにバッカスだったわけだ。

事件は、上野不忍池の畔にあった料亭であった書画会で起きた。その席で狂斎は泥酔して、政府高官を小馬鹿にした戯画(一説には春画とも)を描いたとして捕まり、牢獄に入れられ、「笞(むち)50の刑」を受けて、釈放された。

これを機に、「暁斎」と改名したのである。暁には「さとる」という意味があるからだという。笞打ちの刑は、オーストラリアの歴史でよく知っているので、「日本にもあったのか」と感心した。

しかし、その後、狂画や風刺画を止めたかというと、そうではないのが、いかにも暁斎らしい。

幼名を周三郎。3歳でカエルを写生したほど、幼い頃から絵が好きで、7歳で浮世絵師で名高い歌川国芳に入門。10歳で駿河台狩野派の前村洞和に鞍替えした。

周三郎は、熱心なので、「餓鬼」ならぬ、狂ったように絵を描く「画鬼」と呼ばれて可愛がられた。洞和が病気になったので、駿河台狩野派の当主洞白のもとで19歳まで修行した。

安政2年(1855)の大地震の翌日、戯作(げさく)者として有名な仮名垣魯文と組んで、地震にちなんで鯰絵「老いなまづ」を出版、人気を博した。その後、「猩々(しょうじょう)狂斎」の画号で、戯画、狂画、風刺画で人気者になった。

少年時代の「画鬼」の愛称から影響を受けたのか、独立後の「狂斎」という画号にも、絵師ながら、江戸時代の物書きに多い戯作者のポーズが感じられる。魯文に感化されたのだろうか。赤ら顔の「猩々」は、飲ん兵衛の自分を卑下しているようだ。(写真は資料から借用した「文読む美人図」)

画鬼・河鍋暁斎 蕨市

2010年12月13日 20時24分43秒 | 文化・美術・文学・音楽


「画家」という名前がつく前に、「絵師(絵の職人)」と呼ばれていた江戸時代の「絵かき」には、今の日本では想像もできないほど、桁違いにスケールが大きい巨人がいる。巨人というより「怪人」いや、人間を超えた「怪物」と呼んだほうがいい。

「画狂人」と名乗った葛飾北斎はもちろんその一人。その北斎に習って「狂斎」を画号とした「河鍋暁斎」。日本では知名度はまだ低いものの、欧米では浮世絵の葛飾北斎、安藤広重に次ぐ評価を得ている。

1831(天保2)年、茨城県古河市に武士の二男に生まれた暁斎は、明治中期の1889(明治22)年に東京・根岸で59歳で死んだ。

本人は、埼玉県や蕨市には全く縁はなかった。孫娘の代から第二次大戦中の強制疎開で赤羽へ、さらに1944(昭和19)年蕨市に移転した。

暁斎の遺作のコレクターであり研究家でもある、暁斎のひ孫に当たる蕨眼科医院長の河鍋楠美さん(医学博士)が1986(昭和61)年、蕨市南町4丁目に「河鍋暁斎記念美術館」 (写真)を立ち上げた。日本一小さな市の貴重な文化施設だ。

私が暁斎を知ったのはいつごろだろう。岩波文庫の「河鍋暁斎戯画集」が埃をかぶったまま本棚に積んであるので、第一冊が出た1988年ごろのことだ。 

急に身近になったのは、10年の文化の日、蕨宿商店街が開いた宿場まつりを見に行ったら、店に暁斎の作品が飾ってあった。昔を思い出して、人に尋ね尋ねて記念美術館まで自転車の脚を伸ばしたからだ。

自分では線も円も描けないのに、人の絵を見ることだけは大好き。これまでいくつの展覧会を見に行ったことだろう。現役時代、文学探訪ということで、現役時代ゴーギャンを訪ねてタヒチまで行ったこともある(終焉の地には行けなかったのが残念)。

その河鍋楠美さんが12月12日(日)に「蕨市立文化ホール くるる」で「河鍋暁斎 その人と美」と題する講演をされるという。一か月前からカレンダーに書きこみ、楽しみに待っていて、さいたま市から隣市に出かけた。

「くるる」は駅前で、誰でも分かる。市長も出席していて、挨拶した。なかなか暁斎のこともご存知のようで、その後も静聴していたのに感心した。

こんな面白い話を聞いたのは初めてだった。江戸っ子の楠見さんの歯切れのいい解説もさることながら、暁斎のすごさにほとほと感じ入った。

ウグイス色の和服が似合いの楠見さんは、結構のお年のよう、それでもパソコンのパワーポイントを駆使した見事なプレゼンテーション。私は、本業の後、10年近くPR稼業をやっていたので、うまさがよく分かる。講演の始まりは、「暁斎」を「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読んで下さい、だった。

暁斎の本質を一言で突いた言葉だ。私も前に、このブログで「蕨市 日本一のまち」を書いた時。あわてて「きょうさい」と書き直したことを思い出した。

楠美さんの話は、実に説得力があった。話を基に、私流に解釈すれば、暁斎の素晴らしさは、浮世絵、狩野派の基礎の上に、「速く何でも描ける」独自の画風と、酒好き。それにサービスとユーモア精神の過剰だろう。それがオーソドックスな画壇や評論家に排斥され、日本ではあまり知られていない。

私も酒好きなので、酒を飯代わりに飲んでいた横山大観に惚れ込んで、茨城県の五浦海岸まで日本美術院の研究所の跡を訪ねたこともある。暁斎と大観。「一緒に飲めば、どっちが強かったのか」と思うだけで楽しい。

NHKの「坂の上の雲」を見ていると秋山好古は毎晩、欠け茶碗一つで5合酒を飲んでいたという。当時はアルコール度が低かったのだろうか。「ほんとかな」と気になっている。飲ん兵衛の私もその量に圧倒されるばかりだ。

SKIPシティ 川口市

2010年10月29日 09時28分02秒 | 文化・美術・文学・音楽


埼玉県庁や川口市の関係者、川口市の住民を除いて、県や市が主催する「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2010」と聞いて、すぐに分かる人がどれほどいるだろうか。

埼玉県に長く住んでいる人なら、川口市の郊外にNHKのラジオ送信所があり、高い塔が二本あったのを覚えておられるかもしれない。川口市上青木のその跡地を開発したのが、「SKIPシティ」で、SKIPとは、SAITAMA KAWAGUCHI INTELLIGENT PARKの略語だという。

日本で最大規模の映像・情報産業の拠点にしようとする施設。INTELLIGENT PARKは、全国で一時、大はやりだった情報産業(IT)の拠点の意味である。JR京浜東北線の川口や西川口駅からバスで10分程度のところにある。

「Dシネマ」とは。旧式のアナログではなく、デジタルで撮影・制作された映画のこと。その映画祭が10年7月23日から8月1日まで開かれた。デジタル映画が、4Kデジタル・プロジェクターで世界最高水準の映像と音質を楽しめる。

4Kデジタル・プロジェクターとは何か。デジタル用語でKは1000を意味する。KmやKgのKと同じである。このプロジェクターを使えば、フルHD(HIGH DEFINITION=高解像度)の4倍を超える約885万画素(4096×2160)(横×縦)の4K映像を投影できる。

もらった資料を見ると、この映画祭はすでに7回目。若手Dシネマ制作者の登竜門になっているとか。10年は過去最高の85の国と地域から長・短編映画合わせて810本がエントリー、一次審査を通過した23作品を含む44作品が期間中に上映された。(写真)

候補作品以外にも、映画祭を身近に感じてもらおうと、山田洋次監督の名作「幸福の黄色いハンカチ」のデジタル・リマスター(デジタルへの作り直し)版を目玉として初日にオープニング・セレモニーで上映した。山田監督は、吉永小百合主演の「母べえ」(松竹)をこのSKIPシティの空き地にオープンセットを組み、ロケしたゆかりがある。

この広大な空き地ではまた、NHKのドラマ「坂の上の雲」に登場する巡洋艦の大型セットが組まれ、撮影に使われた。

“シネマ歌舞伎”と銘打って「怪談 牡丹灯篭」も上映された。私は避暑を兼ねてこの怪談を見に出かけた。片岡仁左衛問、坂東玉三郎、坂東三津五郎らが出演、その名演に怖いというより歌舞伎を特等席で見るような楽しさだった。昔の映画キチも十分に堪能した。

映画祭は、SKIPシティの「彩の国ビジュアルプラザ」4階の映像ホールで開かれた。このビジュアルプラザの2階には、NHKが過去に放送した番組(約6千6百本)と埼玉県の映像(1万点以上)が楽しめる「公開ライブラリー」(無料)と映像の歴史、原理、制作のプロセスが分かる「映像ミュージアム」(有料)もある。

別館には天文台、プラネタリウム、展示室付きの「サイエンスワールド」、消費者向けの県の「彩の国くらしプラザ」もある。暇を見つけて、また訪れたい施設だ。







「武蔵野」 国木田独歩

2010年09月27日 11時18分19秒 | 文化・美術・文学・音楽


久しぶりにJR三鷹駅北口の「山林に自由存す」と書いた国木田独歩の石碑を訪ねた。(写真)「実篤」とあるから武者小路実篤の書だと初めて知った。

三鷹には何度も来たのに、この碑のことを突然思い出したのは、最近、国木田独歩に関する講演を聞いたからだ。それと、たまたま仲間と、野川沿いから東京天文台、深大寺をたどる道を歩き、名物のそばを食べた後、バスで三鷹駅に出たからである。

実に久しぶりだ。大学に入学して、野田宇太郎の「東京文学散歩」を手にして初めて訪ねたのが、この碑だった。もう半世紀以上前になる。

高校時代、受験勉強の合間に独歩はほとんど読んだ。高校生にも分かりやすいのと、「いつも驚きたい」という独歩の生き方に惹かれたたからだった。

埼玉県には桶川市に「さいたま文学館」がある。埼玉県で文学と言えば、すぐに思い浮かぶのは、田山花袋(群馬県館林市出身 記念館がある)の「田舎教師」ぐらいだが、ここでは少しでもゆかりのある人の作品をせっせと集めている。

この文学館で毎年度、「埼玉文学講座」をやっている。「読んでおきたい埼玉ゆかりの名作」の中の一編に独歩の「武蔵野」が入っており、10年9月初め、研究家の国士舘大学文学部の中島礼子教授が話をするというので喜んで出かけた。

専門家だけに、調べ尽くしてあり、話も講談のように面白かった。独歩の最初の妻「信子」が、離婚して、米国に渡る際、有島武郎の「ある女」のモデルになったという話は、文壇事情にうとい私には、驚きであると同時にいたって興味をそそられた。お読みになった方はよくお分かりのとおり、”進んだ女性“だったようだ。

「独歩」の号は「散歩」好きからきたというのは、言われてみれば当然ながら、初めて聞くと面白かった。

なぜ私が「武蔵野」に関心があるのか。武蔵の国、そのありかの武蔵野とはどんなところだったのかを知りたいからだ。

武蔵野は、古典文学では万葉集、伊勢物語、更級日記などにも顔を出している。更級には「蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末、見えぬまで高く生ひしげりて・・・」とあり、いくぶん当時のイメージが湧いてくる。

それでは、独歩の武蔵野とは――。中島教授の資料によると、「武蔵野」は、1898(明治31)年、「今の武蔵野」というタイトルで「国民之友」に発表され、1901年に「武蔵野」と改題された。

「今の武蔵野」を執筆したのは、「信子」と離婚した後、現在のNHK放送センター付近に住んでいた1897年頃。つまり明治中期の武蔵野なのである。独歩の「武蔵野の碑」は、独歩が散歩した東京都武蔵野市の玉川上水の桜橋のたもとにある。直接、埼玉県と関係はないのである。

「武蔵野」は、「『武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡(いるまごうり)に残れり』と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」という書き出しで始まる。入間郡は、埼玉県にあり、入間郡、入間市としてその名を残している。狭山茶の産地として有名だ。

ちょっと読み進むと、「昔の武蔵野は萱(かや)原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い」とある。昔は原だったが、今は林に変わっているというのだ。

独歩の描いた武蔵野は、人の手が入った平地林、野(畑)、路(みち)、農家など生活と自然が密接に入り組んだ生活の場としての東京の郊外だった、と教授は強調する。落葉樹からなる平地林は、堆肥や薪炭を供給し、防風林としての役割も果たしていた。

その美(詩趣)を独歩は、ツルゲーネフの「猟人日記」(二葉亭四迷訳)を通じて発見したのだった。今、独歩の足跡をたどっても、急激な都市化のあげく、その俤は一部の公園などを除けば、ほとんど残っていない。

武蔵野は古来、変貌に変貌を重ねてきたのだ。

「〈さいたま〉の秘密と魅力」

2010年08月19日 07時22分08秒 | 文化・美術・文学・音楽


行きつけの南浦和図書館の郷土資料の棚を眺めていたら、「〈さいたま〉の秘密と魅力」(鶴崎敏康著 埼玉新聞社)と題する真新しい本が並んでいるのに気がついた。手に取るとズシリと重い。普通の書籍よりも大型のA5判で、600ページもあるのだから当然だ。

10年4月に出たもので、定価は2、625円。奥付の著者略歴を見ると、生まれは名古屋。1989年、浦和市と合併した大宮市議会議員に当選以来、5期連続当選。05年にはさいたま市議会議長を務めた。以前は、評論家、記者、ジャーナリストとして活躍したとある。

てっきり政治がらみの本と思ったら大間違い。せっせと図書館に通い、書き上げた学術書とも言うべき大労作なのだ。この本の〈さいたま〉は埼玉県全体ではなく、さいたま市のことである。

エピローグに、「さいたまの紹介本」でも、「ガイドブック」でもない。「さいたま私論」、私の目から見た〈さいたま〉であり、私が思う〈さいたま〉論であると断ってある。

地理と歴史 歴史の舞台、その舞台上の文化、文化の自慢話など5部に分かれ、それぞれの部が、氷川神社、中山道、見沼、大宮公園などの場所別、鉄道、人形、盆栽、漫画などの項目別に細分されている。目次が一種の索引を兼ねるという凝った構成である。さいたま百科事典の感がある。

目次が細分されているので、好きなところをつまみ読みできる。この本はさすがプロとあって、書き出しから面白い。浦和は「海」を連想させる地名で、浦和の文字は正しくは、浦回(うらわ)、浦廻(うらわ)、浦曲(うらわ)と書くのが正しい(「埼玉県地名誌」)。市内には「岸町」、「瀬ヶ崎」などの地名が残り、「大谷場貝塚」などの72の貝塚もある。

縄文時代、温暖化で海面が上昇、海の侵入(縄文海進)で、現在のさいたま市の高いところは海に突き出ることになった。首都圏の貴重な緑の空間、さいたま市の見沼田圃(たんぼ)もこの時代、東京湾の海水が入り込む湾だったのだ。

実際、自転車で走り回っていると、浦和には坂が多いのに気がつく。ギア付きでないと登れないようなところもある。日本では長崎、尾道など海に面した街は坂の町なのである。

「歴史の舞台」で「大宮球場」を開くと、日本で初の県営球場であるこの球場の本格的なお披露目は、1934(昭和9)11月29日の読売新聞社主催の日米親善野球だった。

ベーブ・ルースが2本、ルー・ゲーリッグが1本など米軍は10本のホームランをかっ飛ばし、23-5で圧勝した。日本軍のメンバーは沢村栄治、三原脩、水原茂、スタルヒンらであった。野球ファンには身がぞくぞくするような話だ。

よほど資料探しが好きな人のようで、論というより、こんな話がぎっしり詰まっているのだから、読み出したらやめられない。昔の私のように、〈さいたま〉のことは何も知らないのに「ださい」と思っている人たちには一度、開いて欲しい本である。


「埼玉合唱団」

2010年08月02日 10時38分07秒 | 文化・美術・文学・音楽
「埼玉合唱団」 

下手の横好きで、さいたま市で公民館などの歌う会に顔を出していると、その指導者は「埼玉合唱団(混声)」のメンバーであることが多い。県庁前の喫茶店「蔵王」で開かれていた「歌声喫茶」もその一つだった。

その埼玉合唱団が、第3回合唱講座の修了式とみんなでうたう会、ミニコンサートを開くというので、10年7月31日夜、浦和コミュニティセンターのホールに出かけてみた。

前年の「日本のうたごえ祭典合唱コンクール」で日本一に当たる金賞を受賞したと聞いていたからだ。1961年に創立、11年には50周年を迎える。団員はざっと50人前後で、20代から70代まで、職業もさまざま。

第3回講座の研修生は19人。5ヶ月間12回にわたって楽譜の読み方など楽典をみっちり教え込まれたようだ。

最初に講座の紹介や研修生の演奏があった後、ほぼ満員の聴衆と「みんなで歌いましょう」を30分間。これがうたごえの本領だ。

最後のミニコンサートで、各方面での活動で注目されているオペラ指揮者、金井誠氏の指揮で「We Shall Overcome」など7曲を披露した。

壇上に立った女性団員に向けて「おばあちゃん!」というお孫さんのかわいい掛け声が会場からいくつか上がるのが、いかにも市民合唱団らしい。

曲の中で興味深かったのは、日本の「赤とんぼ」と韓国の「アリラン」を一つにまとめた「赤とんぼ~アリラン」。団員と研修生が一緒に歌った。

日本と朝鮮半島の歌がこんなに似ているのかとしみじみと思った。そう言えば、韓国の歌謡曲が日本で大流行した時代があった。日本の歌謡曲の基礎を創った古賀政男のメロディーが、半島仕込みだったこともふと思い出した。

この合唱団は、「日韓併合100周年」を記念して8月28と29日、ソウルで現地の合唱団とジョイント・コンサートを開いた。

曲目は、原爆の悲劇を伝える「墓標」、南北分断の悲劇を歌った「イムジン河」などで、最後にはこの「赤とんぼ~アリラン」を日韓の合唱団が共に歌った。

「埼玉の日本一風土記」

2010年07月19日 18時09分32秒 | 文化・美術・文学・音楽


行きつけの南浦和図書館で、「郷土資料」の棚を何気なく見ていると、『埼玉の日本一風土記』という新しい本が並んでいるのを見つけた。10年の3月に出たもので、筆者は元埼玉県職員の関根久夫氏。出版は埼玉県関係の本で知られる幹書房。

先に『これでいいのか さいたま市 ”ダサイたま“とは呼ばせない』(マイクロマガジン社)という雑誌を初めて見た時も感じたことだが、さいたま物も商売になる時代が来たらしい。

読んでみると非常に面白い。歴史、民俗、文化財、自然など多くの「日本一」の中から33件を選び、7つの分野に分け、それに準じたものを番外のコラムとして7つ選んで計40件を取り上げたと書いてある。

後ろの参考文献では埼玉関係の目ぼしい本は網羅しており、大変な勉強家であることが分かる。それに加え感心するのは、1件ごとに自分で撮った写真が数枚ずつ付いていることだ。一度だけではなく、何度も関係個所を訪れ、頭と脚の双方を使って、長い時間をかけて書き上げた、頭の下がる労作なのである。

「秩父神社の素敵な動物彫刻」のコラムには、秩父神社本殿の「お元気三猿」は、日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿と反対に「良く見て、聞いて、話そう」という逆三猿なのだとある。

今度出かける時、じっくりと見てみたい。

塙保己一のコラムでは、昭和12年、三重苦の「奇跡の人」ヘレンケラーが来日して、真っ先に訪問したのは、塙保己一が編纂した「群書類従」を保管している渋谷の温故学会で、群書類従を手で触って、保己一をしのんだ。

子供のころから母親から保己一のことを聞かされて手本にしていたからだという。今さらながら保己一の偉大さを思う。