5時 40分、太平洋から上がる朝日 を拝み、南三陸町のホテル観洋を 8時に出発。
東日本大震災・災害復興視察ツアーであり、震災での教訓を自分の地域で 発生した時に生かすことを目的とした、《二宮町災害ボランティアネットワーク》の主催であり、代表の方や町長ほか皆さんと、わが町ではどの様な対策を取るべきか 勉強 をして来ました。
2日目は将来の宝である❝子供たち❞を守るにはどうすべきか 南三陸町・女川町・石巻市・名取市の小学校・中学校を見て回りました。 一般の犠牲者は含まれておりませんが、宮城県内の小学生犠牲者は 186人。 そのうち実に 74名が大川小学校の生徒で、県内の実に 4割が 1つの学校での犠牲者数です。
その様な現実を踏まえ「なぜ 」についての真実を少しでも共有できたらと大川小学校に向かいました。9時 到着。 乗用車が数台と観光バス 3台が止まっていました。
駐車場の前で待機して頂いたガイドの高橋様と合流し、1時間にわたりご説明頂きました。
前例のない大惨事 の後には、前例のない悲しみ、前例のない事後対応が続いています。 ですから、大川小学校は前例のない震災遺構となっています。 特に誰が PRしている訳ではありませんが、国内外から大川小を訪れる人がどんどん増えているそうです。 今でこそ解説版が設置されていますが、5年前は表示板もガイドブックも何も無いにもかかわらず、年間数万人の方々がこの地に立っています。
現在でも石巻教育委員会と遺族との対話が、今の国会答弁の様に二転三転し、検証委員会でも進展がないため、ガイドさんも中立な立場での解説をされていました。 平成 30年 4月 27日に裁判での判決が下されるとのことです。
以下は『小さな命の意味を考える会』の冊子より抜粋したものです。
震度 6強というそれまでに体験したことの無い強い揺れが 3分も続いた後、大津波警報が発令され、防災無線やラジオ、市の広報車が盛んに避難を呼びかけていました。 その情報は校庭にも伝わっていて、子供達も聞いていました。
体育館裏の山は緩やかな傾斜で、椎茸栽培の体験学習も行われていた場所です。 迎えに行った保護者も「ラジオで津波が来ると言っている。あの山に逃げて」と、進言しています。 スクールバスも待機していました。そして「山に逃げっぺ」と訴える子供たち。
校庭で動かずにいる間に、津波は川を約 4Km遡り、堤防を超えて大川小を飲み込みました。 15時 37分、地震発生から 51分、警報発令からでも 45分の時間がありました。
子供たちが移動を開始したのはその 1分前、移動した距離は先頭の子供で 150mほどのようです。 なぜか山ではなく、川に向かっています。 ルートも狭い民家の裏を通っており、しかも行き止まりの道でした。 時間的に、最初の波で堤防から水があふれた後の移動開始です。 津波が来たのでパニックになったと考えられています。
その行動に対して「過去に津波が来襲した記録がないことに加え、大川小学校がハザードマップの予想浸水区域外になっており、津波災害時の指定避難場所になっている」このことが先生方の判断に影響を与えたのではと推定されています。
皆、分かっていた・・・・・?
大津波警報は 聞こえていました。 ラジオもありました。 迎えに来た保護者は「津波が来るから逃げて」と叫んでいました。 広報車も、防災無線も、津波 の危険を伝えていました。
スクール バスも待機していました。 11人もの教員が揃っていました。 走れば 1、2分の場所には、簡単に登れる裏山 がありました。
そして子供たちは「山 へ逃げよう」・「ここにいたら死ぬ」と口にしていました。 自分から山に登った何人かは、先生に連れ戻されていました。 そのまま 51分校庭に留まり、78人が黒い 波に呑まれました。
「なぜ」・「どうして」・・・この言葉ばかりが、この言葉だけが浮かびます。
逃げることをしなかった大川小だけの理由とは・・・・・
校長は不在だった。 しかし教頭、教務主任はいたので、普通に考えれば「逃げる」という簡単な判断はできたはずです。 その判断をも失くす、普通ではない要因が潜んでいたのではないか・・・・ たった一人の判断行為 何かあったらどうするのか? 先生は絶対的存在
これからの教訓とするために
子供 たちは必死になっていた。 生きようとしていた。これこそ人の持つ最も大切な「学び」です。 しかし、残念ながらそれを教える側の先生には「学び」が無かった。 それでこんな大変なことが起きてしまった。 しかし、先生だって、生きようとしていたはずなのに。
生きる力はどうやって学ぶのでしょう。 先生は誰から教わるのでしょうか
子供 たちは守られなかった・・・。 子供を守るには、どうしたら良いのでしょう。 家庭なら、親がその役目です。 でもその親が世間から守られていなかったら・・・虐待がこれです。 守る立場の人もまた、守られる必要があるのです。
先生に当てはめて考えます。 先生を守るのは、校長・教頭といった上司や、教育委員会という組織が第一。 それに保護者を含めた地域もそうです。 これらは❝大人❞と括れそうです。 先生も大人ですが、広義でのオトナです。 果たして私たちオトナは先生を守っているでしょうか? 自分自身にも問答します。
このオトナを突き詰めると、どうやら国家に行き着きます。 この国は国民を守ってくれているのでしょうか? 大川小を考える時、つい国づくりを考えてしまいます。 子供たちは『未来』なのですから。 その未来が「なぜ」・「どうして」のままで失われて良いはずがないのです。 私たちはオトナとして、子供 だけでなく、大人も守っていかなくてはならない。 親も先生も国会議員も、みんなオトナにならなくちゃいけない。 まずはこちらから守ってあげなければ、守ることはできない。 最近それを忘れがちなのかもしれない、と感じます。 2015.3 鈴木宏輝 (高崎市学童保育連絡協議会)
約 1時間の解説を頂き、皆さん沈痛な 思いで大川小学校を後にしました。
追記 平成 30年 4月 26日(木)宮城県石巻市立大川小学校の津波訴訟で、仙台高裁は校長や市教育委員会による防災体制の不備を厳しく指摘し、組織的な過失を認めた。 大切な 子供さんを先生の指示に従いながら亡くされたご遺族の方々の強い気持ちが子供さんに届いたように感じました。 司法制度も国よりであり、校内イジメでも調査もせず平気で「当校にはイジメはありません」と言い張るのが当然の様で、子供を守るよりも自分方を守る方が優先。 こんな世の中であり、司法に対しても不安視していましたが、ご遺族の訴えが認められ本当に良かったと感じています。 この様に声を上げなくては、校長や教育委員会という組織は何も変わりせん。 子供たちの死を無駄にすることなく、責任をハッキリさせ今後の学校防災改善に生かしていく事が亡くなった子供たちに伝える、残された者の責任だと思います。
その後、震災から 4年を経て、平成 27年 3月 21日に全線開通したJR石巻線の女川駅に向かいました。
綺麗に整備され生まれ変わった女川町をぶらり散策しました。 上記、写真の女川駅正面レンガ遊歩道を海に向かって進むと『シーパルピア女川』と命名された女川駅前商店街があります。 両側には土産物店・食事処・カフェなどが並んでいます。
45分間ノンビリし 11時 55分、石巻市へ移動。
石巻市の「いしのまき元気いちば」に 12時 40分 到着。 復興まちづくり情報交流館の中央館に立ち寄りました。 三陸復興国立公園のリアス式海岸は東側が太平洋に面し、明治 29年 6月 15日「明治三陸大津波」、昭和 8年 3月 3日「昭和三陸大津波」に続き東日本大震災の津波 に遭遇しました。
ところが石巻湾は相模湾と同様に南側が海に面し、今までに津波 の経験がなく、また今から約 400年前の 1613年(慶長18年)仙台藩主「伊達 政宗」が、仙台領内でのキリスト教派遣容認と引き換えに、ノビスパニア(メキシコ)との貿易交渉を求めて、イスパニア(スペイン)国王及びローマ教皇のもとに慶長遣欧使節という外交使節を派遣しました。 伊達 政宗の命を受けた「支倉 常長」ら慶長使節は、現石巻市で建造されたガレオン船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を往復しました。
この様に石巻港は江戸時代から歴史的貿易港であったため堤防など考えてもいなかったようです。 そのため、このマグニチュード 9.0の東日本大震災では大きな被害を被ってしまいました。