イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

全裸ランナー、警察が捜索中

2009年08月11日 22時23分02秒 | Weblog
昨夜、公園をランニングしていると、園内にやたらとパトカーがウロウロし、警官があちこちに立っていることに気づいた。そのまま走っていると、警察に呼び止められた。自転車に乗っているときは自転車泥棒に見えるらしいのかしょっちゅう呼び止められるのだが、二本足で走っているときに呼び止められることはほとんどない。オレは走っているだけでも怪しい男に見えるのだろうか?

すると驚いたことに、警官は開口一番こう言ったのである。
「ここらへんで、裸で走っている人を見かけませんでしたか?」

びっくらこいた。それって、オレのことじゃないのか? いつも昼間上半身裸で公園を走っているオレの存在にたまりかねた誰かが警察に通報して、一斉捜査が始まったのだろうか? そのときオレはさすがに夜だったのでシャツは着ていたのだが、「裸」と聴いた瞬間に、いろんな想像が頭を駆け巡った。目が泳ぎ、および腰になってしまった。思わず、

「それはいつのことですか? 裸って上半身だけですか? それとも素っ裸っていうことですか?」

と矢継ぎ早に質問してしまった。もし警官が「昼間、上半身裸で走っている男」と答えたのなら、犯人はオレだ。自首しなければならない。

警官は「素っ裸」に反応して首を縦に振った。どうやら、今夜、全裸で公園を走っている危ない男がいるらしい。オレは正直に、「そんな(変態な)男は見ていません」と、いかにも真面目人間、真面目ランナーを装ってそう答えた。「人前を裸で走るなんてなんて非常識な、困りますね~」みたいな表情をさりげなく浮かべながら。

警官と別れたオレはランニングを再開した。パトカーが何台も園内をウロウロしている。警官が鋭い目で周囲を見渡している。その後、実際にその男を見ることはなかった。奴がなぜ裸になったのか、その理由はまったくわからない。危険な輩であれば即刻逮捕しなければならない。だけど、半裸ランナーとしては、ついさきほどまでこの暗闇を疾走していたであろうその全裸ランナーに、なぜかちょっとした共感を覚えた。

「逃げろ、早く園内から脱出するんだ」

ひょっとしたら彼は、いつまで待っても姿を現してくれない真夏に業を煮やし、ストリーキングをすることでその怒りを表現していたのかもしれない。そうだとしたら、その気持ちは痛いほどわかる。人ごとではない。彼はオレだ。オレは彼だ。だから、オレも犯人なのだ。やばい、逃げなくては。

なぜかいつもより不安定な足取りで、オレは公園を抜け出した。

オレはまだ捕まっていない。オレは今も、逃げ続けている。

やっとの日

2009年08月10日 23時25分26秒 | Weblog


前々からぜひ一度お昼をご一緒に!と思っていた翻訳仲間の方とのランチがついに実現した。ひとえに僕の調整力のなさが原因で、これまでなかなか実行できなかったのだ。やっと8月10日に実現したので、この日は「やっとの日」と命名されることになった。

せっかく新宿に来たので、以前の勤務先の翻訳会社に突然お邪魔することにした。こちらにも前々から挨拶にいかなければ、と思いつつ、これまでなかなか実行できなかったのだ。約9ヶ月ぶり?だろうか。久しぶりに元同僚の方々と会って、軽く話をした。とても楽しかった。昔自分が座っていた座席が、妙に懐かしい(何事につけ、1年ぶりくらいって一番懐かしさを感じないですか?)。

ここで、私が発見したマーフィーの法則をひとつ

「会社は、たまに行くと非常にいいところである」

いい位置に机がひとつ空いていたので、思わずその机で明日から会社員として働きたくなった。「復帰させてもらおうかな~」なんて冗談を言いながら笑っていたら、真剣に仕事をしている静かな職場がドン引きの空気に変わっているのに気づいたのだった。

新宿には以前、毎日通勤していた。行こうと思えばすぐに行ける。なのに、ランチも職場への挨拶も、なかなか実行できなかった。物理的にはすぐ近くにあるものを、心理的な壁を作ることで、ものすごく遠くにあるものにしてしまっていたのだ。春くらいまでは人に会うのがおっくうな時期もあったし、先月くらいまでは仕事がすごく忙しかった。でも今日は「やっと」をふたつ果せた。この調子で「やっと」をたくさん増やしていこう。今日会った人たちに感謝を込めて。

Belated

2009年08月09日 23時20分04秒 | Weblog



まさかここまで晴天の日が少ないとは予想だにしなかった。いくらなんでも8月になったらカラッとした天気になって、燦々と降り注ぐ陽光の下を裸になって、いやというほどランニングして、おそらく熱中症で1回は倒れたりして、そんな天国と地獄を同時に味わえる日々がくるのはなんだかんだいって間違いないだろうと思っていた。それなのにずっと曇ってばかり。追い打ちをかけるように、出かけようとしたら雨が降る。

ここ一週間くらい、天気予報を見ると、だいたい今日と明日までは曇りと雨のマ―クになっている。明後日からは晴れるのかと思いきや、明日になったらまた今日と明日が曇りと雨になっているのだ。スライドしとるだけやないか! と、思わずつっこみを入れているのは私だけではあるまい。

もうこうなったら、今年の夏はなかったことにしよう。思っていたような夏と出会えるのは、もう諦めよう。来年に期待しよう。いや、来年だって怪しいもんだ。ここまで天気が悪いと、来年も今年と同じようになるような予感を早くも感じ始めている。

私の家ではこの夏、クーラーは一度も使っていないし、気がついたら扇風機すら出していない。もし夏がこれから気合いを入れ直して、これまでの汚名を返上するべく頑張ってくれるのなら、そして、暑くて暑くて死にそうな思いをさせてくれるのなら、そのときは遅ればせながら扇風機を出してやろうと思う。それまでは意地でも出さない。だってこのままでは、私にとって今年は夏がこなかったに等しいのだから。

明日に乾杯

2009年08月08日 22時18分59秒 | Weblog
昼過ぎに六本木に集合。知人のおめでたい門出を祝う会。さらに同席した知人からもおめでたい報告が。おふたりの幸せを切に願う。本当におめでとうございます!

みんなの口からは、自然と会社の話が出てくる。それを聞いていると、自分はもう会社員ではないのだ、ということを実感する。山ごもりの暮らしをしている自分が、つかのま下山して、都会の人たちの話を聞いているような気がする。

僕の日常には、もう通勤もないし、朝礼もないし、会議もない。残業も出張もない。同僚も上司もいない。

でも、僕は個人事業主。たったひとりとはいえ、「事業」に関わっていることには変わりない。仕事をして、報酬を得る。つまり、はたらくという意味においては、本質的には会社員と同じだ。ひとりではできることに限度がある。だけど、ひとりにしかできないこともある。ないものねだりをせず、フリーランスのよい面を見て、自分の仕事とライフスタイルを楽しみながら、事業として、きっちり仕事をしていきたいと思ったのだった。

以前はオンとオフの区別がつけれなくて苦しんでいたのだけど、最近ひとつ実感したことがある。それは、オンのとき(仕事をしているとき)に全力を尽くすと、自然とオフの時間がやってくるということだ。全力で仕事をすると予定通りに仕事を終わらせることができるということもあるし、やるだけやったという満足感のようなものもあって、気持ちよくオフに移行できる。

昨日も仕事をやるだけやったら自然と「もうやめよう」という気になって、とてもスムーズに読書に切り替えることができた。ニンニクパワーが効いたのか、朝四時に起きたのに、本が面白くて深夜二時まで没頭してしまった。そのまんま東著『芸人学生』を一気読み。読んだら、猛烈に勉強がしたくなった。明日は、勉強の計画を立てよう!

ニンニクをレンジでチンして食べたら嘔吐した件

2009年08月07日 20時49分08秒 | Weblog
昨夜、ちょっと口寂しかったので、ニンニクをレンジでチンして食べてみることにした。

ネットでレシピを調べたら「1分ほどチンしたらホクホクになって辛みも抜けるからたくさん食べれるよ!」

みたいなことが書いてあったので、そうなのかと思って本当はそんなに食べるつもりじゃなかったのに6,7片ほどチンしてみた。

1分ではまだ不十分みたいだったので、もう一度チンしてみた。それなりに食べれそうなおつまみができあがった。

マヨネーズと焼き肉のタレで食べると美味しいと書いてあったので、そのとおりにしてみたら本当に美味しかった。

だけどちょっとチンが足りないような気がした。想像していたほどのホクホクさはない。でも面倒くさいのでそのまま食べることにした。

小さいのは問題なかったのだけど、3片目、4片目を食べているとだんだん辛みが口のなかに広がってきた。

そこでやめておけばよいものを、残りもわずかだからこのまま全部食べちゃえ! と、チンしたなかでもひときわ巨大な1片を胃袋に放り込んだ!(高田延彦風)

すべてを口の中に入れてから数秒後、ものすごい辛みが口内を駆け抜けた。

罰ゲームでわさびたっぷりのお寿司を食べた人はこんな気分になるんじゃないかというくらいの強烈な刺激だった。

水を飲んでもダメ。口の中がヒリヒリするだけでなく、胃袋もジンジンしてきた。

脂汗が出てきた。これはちょっと横になった方がよさそうだ。というか、1時間ほど仮眠をしたら寝てる間になんとか治まってるだろうと思って布団に横たわった。

ところが全然ニンニクパワーは衰えを見せない。寝るどころじゃない。仰向けになってもダメ。横向けになってもダメ、俯せになってもダメ。四つん這いになってもダメ。

どれだけ体位を変えてもダメ。

にわかに「これは吐いた方がいいのかも」という思いが脳裏を横切った。

「フッ、このオレ様がまさかニンニク7片ごときで嘔吐するなんて」プライドがそれを思いとどまらせる。笑ってその場を凌ごうとする。でもダメ。

(↓お食事中の方、すみません)
洗面所に駆け込んで、吐いた。喉の奥に指を入れて、何度も嘔吐した。ニンニク色の黄色い液体のようなものがかすかに出てきた。涙がこぼれ落ちてきた。

辛い。本当に辛い。ニンニクがカラいのも辛いけど、ニンニクごときで吐いている自分というその存在そのものが辛い。

その後、布団に戻ると少しだけ楽になった。それでも脂汗を流しながら、いつの間にか寝てしまった。

それが夜の八時。そして目覚めたのが朝の四時。風邪引いた子どもみたい。結果的にものすごく健康的な生活リズムに戻れそうではあるけれど、悪夢のようなニンニク体験があるから、あんまり爽やかな気分じゃない。

「忍辱」とはよく言ったものだ。ドラキュラがニンニクを嫌いなわけがよくわかった。ニンニクを嘗めてはいけない。というか、料理を嘗めてはいけない。

「ニンニクをレンジでチンするときは、完全にホクホクするまで食べてはいけない」この教訓を、オレは死ぬまで忘れないだろう。






無知の涙

2009年08月05日 22時55分38秒 | Weblog

大人になってからというもの、めったに涙を流すことがない。泣かないのは僕が強い人間だからではない。単に心が錆び付いてしまっているからだ。悲しいことがあったとき、感動したとき、人前ではばからずに涙を流す人を見て、うらやましいと思う。そういう人は、きっと心の純度が高いのだと。人情に厚い人なのだと。

そんな僕でも、たまには泣くことがある。でも、ここで泣かねば、と思う局面で、タイミング良く涙が出てくれることはめったにない。いくら悲しくても、どれだけ感動しても、簡単には目頭は熱くなってくれないのだ。なんて薄情な奴なんだ。なんて他人行儀な奴なんだ。そんな心の声がする。

涙は、本当に忘れた頃にやってくる。突然の涙。無知の涙。自分がいかに人情を、世間を知らなかったのかということに気づいて、大きな愛の存在にいまさらながら気づいて、堰を切ったように涙は流れる。涙を流している自分を、「まだ自分にも涙は残っていたのか」という驚きとともに、客観的に眺めている自分もいる。

次の涙がいつやってくるかはわからない。だけど、人生最後の日には、これまでに出会った人たちのことを思って、笑顔で涙を流したいなあ、と思う。そしてそんなことを考えていたからこそ、今日の僕は思わず涙してしまったのだ。

涙は目の汗。一生懸命生きた分だけ、涙腺にたまっていくものに違いない。少しだけ心がすっきりしたから、明日こそは、明日に向かって歩いて行こう。

まだら模様 ~心の蒙古斑~

2009年08月04日 17時37分03秒 | Weblog

徐々に夏らしい日が少しずつ増えているような気がする今日この頃、僕はとうとう脱皮を始めました。昼間に上半身裸で公園をウロウロしているので、いつまでたっても梅雨が明けきらないようなこの夏にあってかなり日焼けしているのですが、脱皮する日がくるとはなぜか想像していませんでした。数日前から皮膚がなんだかモゾモゾしていて、なんだか変だな~と思っていたのですが、昨日あたりからいっせいにポロポロと皮がめくれ始めたのです。今、肩から背中にかけて、偽物の世界地図のような模様が立ち現れています。我ながら気持ち悪い。

しかし日焼けして皮がむけたなんて何年ぶり、いや何十年ぶりでしょうか。なんだか甲殻類になった気分です。あるいは、まな板の上に寝かされ、包丁の背で鱗を剥がれているサカナの心境。エビでもカニでもない、人間であるはずの僕の皮がむけるという事実にも驚きますが、自分の意志と関係なくそうした新陳代謝のメカニズムが水面下で作動していることにもっと驚かされます。僕の皮膚は僕の一部でありながら、僕という意識のあずかり知らないところで己の活動を続けているのです。中央が何を考えていても、それとはまったく無関係のところで局部は局部なりの重要問題を処理する。まさに地方分権ですね。

ここ10日ほど張り切って歩いたり走ったりしていたためか、身体が疲れてボーッとしています。気分もよどんでいる。夏ばてなのかな? と思ったりもしたのですが、単に身体に疲労が残っているというだけではなく、日常生活のなかで、人間関係や自分の人生について気になることがあったことが身体にも影響を与えているのではないかという気がしました。思い当たることが、いくつかあります。意識上は整理を付けているつもりでも、いろんな出来事が、きっと心身のさまざまな面に作用しているのです。僕の知らないところでいつの間にか脱皮の準備が進められていたのと同じように、心のなかでも僕が知らないところでさまざまな処理が進められているに違いありません。そしてそれはいつか突然の脱皮のような形となって露出するのです。

自分をとりかこむ小さな世界のなかで起きる様々な事件からは、けっして逃れることはできません。すべてをコントロールすることもできません。僕という自意識、つまり僕という日本列島の霞ヶ関ができることは、そうしたあまたの出来事に少しだけポジティブな光を当てて、よい面を見ようと努めることと、皮がむけようがトサカが生えようが、そうした生体としての自分の変化をできるだけなすがままに受け入れるようにすることなのかも知れません。今僕は、心も体も、まだら模様。それは決して綺麗なものでもわかりやすいものでもありません。でも、まだらになった自分の身体を眺めながら、なんだか汚らしくはるけど、これはこれで自然が織りなした美しいデザインのような気もして、そして僕の心の本質も、僕が生きているこの世界も、きっとその正体は、こんなまだら模様に違いないと思ったりしているのでした。

突然ですが、僕のお気に入りの可愛い柴犬の動画を。ああ、なんて愛おしい。子犬のときって、口の周りが黒いんですよね。人間でいうところの、蒙古斑みたいなものでしょうか。



朗読会の報告

2009年08月01日 12時16分25秒 | Weblog
昨日の朗読会、とても楽しく参加させていただいて参りました。

見に来ていただいた方々、主催者のマハロいとうさん、出演者の夏目さん、川村さん、会場のよしだ屋珈琲店さん、本当にありがとうございました。

僕は、一番バッターで登場させていただきました。穂村弘さん著『短歌という爆弾』のなかから「世界を覆す呪文を求めて」と、サム・シェパード著/畑中佳樹訳 『モーテル・クロニクルズ』の散文詩、レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳 『ウルトラマリン』より「今朝」という詩を朗読しました。緊張と、欲張って読む量を多くしたのであせってしまったこともあり、朗読というより単なる音読、そして傍からみているとかなり危ない世界に入ってしまっていたようです(^^; 聞いていただいた方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。おそらく、相当な苦しみだったのではないでしょうか...。この場をかりて、あらためてご静聴いただいたことにお礼を申し上げます。

しかし、久しぶりの人前での朗読はとても楽しく、いい経験になりました。朗読対象のテクストの選択から、朗読のスタイルまで、自分の特性がはっきりとでるものなのだなあ、ということがよくわかりました。

その後、夏目さんは宮沢賢治の「注文の多い料理店」をユーモラスに、川村さんは津軽の詩人、高木恭三さんの詩を迫力のある津軽弁で、マハロいとうさんは長尾弘さんの詩(「イワシについての詩」も選んでいただきました!)とエッセイを叙情たっぷりに読み上げました。それぞれ個性があり、とても楽しめました。お三方の落ち着いた朗読ぶりに大人を感じました(それにひきかえ僕のあの中学生のような朗読はいったい...)。

それにしても、朗読は面白い。何を読むか、どう読むか。たったそれだけで、読み手の個性や人となりがくっきりと表れるものです。朗読を聞いていると、その人が普段、本を読んでいるときの頭の中を覗いているような気がしました。それと、黙読と音読の違いにもあらためて気づかされました。大人になると声に出して文字を読む機会はめったにありませんが、音読は読書の原点かもしれない、と感じました。子供の頃に、本を読み始めたときの感覚が蘇ってくるようでした。

素晴らしい機会を与えていただいたみなさまに感謝です。またの機会があれば、今度はもう少し大人の読み方で、聞いていただく方に何かを感じてもらえるような朗読をしてみたいです。

その後の飲み会も大いに盛り上がりました。夏目さんのブログに朗読会の模様が、マハロいとうさんのブログに詳細が記載されています。


今日からもう8月! 今月もよい月になるように頑張ります!