イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

沈黙力

2007年12月20日 00時24分18秒 | ちょっとオモロイ
夜、走りながら、iPodを聴いていた。いつも、英語の勉強を兼ねて、podcastでNPRなどのアメリカのラジオ番組を楽しむことにしている。いくつも番組を登録しているのだけど、そのときは、何気にNational Geographicのコンテンツを選んだ。スタジオにゲストを招いてトークをする20分ほどの番組だった。ホストの女性が、ゲストの男性のことを紹介し始めた。

その日のゲストは、環境問題に対する抗議行動として、約20年間、車に乗ることを拒否した経験があるのだという。完全な車社会のアメリカでは、とてもじゃないが常識では考えられないこと。ぼくも経験したことがあるのだが、特に郊外にいくと、歩いて移動することはほぼ不可能になる。なにしろだだっ広くて、隣のビルにいくにも、車を使う。たまに道を歩いている人がいると、「この人、どうしたんだろう?」と思う。自転車も走っていない。タクシーもいない(歩く人がいないからタクシービジネスもなりたたない)。ともかく、そのゲストは、自分が運転しないのではない、いかなる車にも乗らなかったのだ。ただ、これは日本人で車を持たないぼくからしたら、それほどびっくりするような話ではない。驚いたのはこの次の話だった。最初、内容を聞き間違えたのかと思った。でも、よく聴いてみたら、やはりそうではなかった。彼は、同じく抗議行動の一環として、17年もの間、沈黙を貫き通したのだという。つまり、一言もしゃべらずに、何も言わずに、――うんともすんともいわずに――それだけの年月を過ごしたのだ。

John Francisは、1971年、サンフランシスコの湾でオイル流出事故に遭遇し、被害にあった自然を目の当たりにしてショックを受けた。彼は考えた。自分にもこの事故の責任はある。なぜなら、このタンカーは、自分が運転する車のガソリンを運んでいたかも知れないのだから。だから彼は車に乗るのを止めた。以来、どこに行くにも歩いていった。彼は言う。「歩いてしか行けないと、どこにいくにも特別な体験になる。逆に、リッチな時間を過ごせることができた」(という風なことを言っていたように聞こえた)。そして、いつも議論ばかりしている自分を戒める意味で、ある日、何も喋らずに過ごしてみた。そしたらその日、いつもより自分のことをより深く理解できた気がしたのだという。そしてそれ以来、一切、喋るのを止めた。17年後に再び口を開くまで。

最終的に、彼は再び車に乗り、喋るようになったのだけれども(だからこそラジオ番組にゲストとして出演していたわけだが)、沈黙中に博士号を取り、今はPlanetwalkというNPOの代表として、旺盛に活動をしているらしい。Webサイトにもいろいろと情報が掲載されていた。Planetwalkerという本も出ているようだ。
http://www.grist.org/news/maindish/2005/05/10/hertsgaard-francis/

彼の行為を無批判に賞賛することはできないけど、ともかく、すごい。しゃべらないことで、人と言葉ではできないコミュニケーションができる。しゃべらないことで、人の話がよくわかる。そういう気持ちになるのだそうだ。頭がおかしくなった、と周りからは言われ続けたみたいだけれど。

で、番組を聴き終わったあと、やはり翻訳のことをつい連想してしまった。翻訳は孤独な作業であり、しゃべりながらする仕事でない。口を開かなくても、訳文は作れる。もちろん、翻訳者だから必ずしも寡黙かといえば当然そんなことはなく、人と会えば楽しく会話を弾ませるが(大先生のように)、傾向として、一日中人と会っていたい、しゃべっていたいという人はあまり翻訳を志したりはしないのではないだろうか。わるい意味ではなく。僕もそうだが、一人でいることが特に苦にはならない、そういう人でなければ、やってられないというところもある。むしろ、一人でなくては訳文なんて作れない、という気もする。サイレンスの中にあるからこそ、エクリチュールの世界に入り込むことができる。それに、一人でいることは、楽しい。一人でいるときには、一人でいるときにしか味わえない楽しみというものもあるものだ。

それでも、沈黙することは、沈黙し続けることは、辛いことだ。自分だけが世界から取り残されたような気がすることもある。想念は音もなく駆け巡り、やがて、おりのようにゆっくりと何かが心に降り積もっていく。そして、翻訳者は沈黙によってえられた薪に火をつけることで、訳文という炎を燃やし続けることができるのかもしれない、と思う。締め切りに追われて言葉を失い、居留守の電話に息を殺すという、負の沈黙力も必要かも知れないけれど。

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