イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

俺のダチ

2007年12月21日 00時12分09秒 | ちょっとオモロイ
昨日のエントリに絡んだ話になるが、今、Self-deprivationなるものが●むこう●ルビ(アメリカ)で受けているらしい。Depriveというのは、「奪う」とか、「剥奪する」とかいう意味だけど、ここでは敢えて日本語にすれば「~断ち」。つまり、Self(自分)から何かをDepriveする、剥奪することによって引き起こされる変化の感触を楽しみ、味わう、ということらしい。たとえば、1年間、テレビを観るのを止めてみる。あるいは、1ヶ月間お酒を止めてみる。もしくは、3ヶ月間肉食を止めてみる。または、半年間Book Off通いを止めてみる。何でも対象になりそうだ。そして、それによって自分がどう変わるのかを確かめる。あることではなく、「ない」ことが刺激になる。あれもこれも、と自分のなかに取り入れるのではなく、何も入れないことを考える。逆転の発想。足し算ではなく、鶴亀算でもなく、引き算。そういうこと。

具体的にどういう風に流行っているのかは知らないのだが、それが受けている気持ちはわかる。だって、面白そうだ。これだけ物や情報があふれた世界にいると、それがストレスになっているのだから。今まで、必要だと思っていたこと、あるいはなんとはなしに、なくてはならないと思っていたこと、気がついたら毎日やっていることを、思い切ってすっぱりと止めてみる。そうしたら、意外となくても平気だった、逆に素の自分を発見した、なんて気持ちになるのだろう。禁煙するのもそうだろうし、断食するのもそうだろう。あるいは会社を辞めてみる、いい人ぶるのを止めてみる、またしても夢を諦める、なんてのも当てはまるのだろう(すべて経験してるな)。あるいは、もっと小さなこと、ポッキーを食べるのを止めてみるとか、織田○二が出ている番組を観るのを止めてみるとか、とにかく何でもいい、自由に自分でやめる対象を決めて、実践し、心境の変化を楽しむのだ(あるいは、あえて苦しむ)。いずれにしても、ちょっと高尚な遊びというか試みであるとは思う。何を止めるにせよ、自己に対するディシプリンを要するってことだから。

でも、話はそう簡単ではない。人間は、いろんなものに依存して生きているのだ。相○みつお風に言えば、だから、人間だもの、ということになる。みんな、止めたくても止めれないもの、手放したくても手放せないものを抱えて毎日暮らしている。むしろ、それが人生だといってもいい。だから、それでいいじゃないの、まあまあ、結構じゃないですか、堅いこといわなくても、まあ、とにかく一杯やりましょうよ、と思わずグラスをぶつけあって乾杯したくなるのが人間なのである。人は、何かに執着し、依存し、自らを投影する。存在自体が過剰で、そのままではどうにかなってしまいそうでも、何かに頼ることで奇跡的なバランスを保って生きることができる。誰もがそんな部分を持っているはずだ。だから、どうしても止めれないものを無理して止めることはないと思う。だけど、なくてもいいかな、くらいのものは、軽い気持ちで止めることに挑戦してみても面白いと思う。

前に書いたけど、ぼくは2ヶ月ほど前に、コーヒーを飲むのを止めた。というか、カフェイン自体を摂るのを止めた。結果、どうなったか。格段に体調が良くなったわけではないけど、それでもかなりよい兆候があらわれた。眠りは深くなったし、朝起きるのも楽になった。ご飯も美味しくなった(だから太った)。精神的にも安定している。それに、飲みすぎて興奮したり、夜眠れなくなって次の日ぶち壊しになったりということもなくなった。だから、よかったのかな、と思っている。朝の1杯が恋しくなることもあったけど、ぼくは適当な加減で止めることができないから、我慢した。性格的に、ブレーキの壊れたダンプカーのように自制心がないので、何でも元から絶たないと駄目なのだ。でも、最近は我慢が我慢でもなくなってきていて、もうほとんどコーヒーを飲みたいとは思わない。むしろ、香りを嗅いだだけで、きつく感じられてしまい、ちょっとした拒否感まで感じてしまう。ともかく、いつまで続くかわからないが、このコーヒー断ちは続けてみたいと思っている。とういうわけで、Self-deprivationという言葉を知る前に、同じことを実践していたというわけだ(その分、ほかの事に無駄なエネルギーが注がれているような気がしないでもないが)。そして、コーヒーを止めた、ということよりも、何かを自分の意思で止めれた、ということの方に新鮮な驚きと快感を感じている。

そういえば、浪人生のとき、一人暮らしをしていたのだが、部屋にはテレビを置かなかった。テレビなんか観ていたら、勉強できないと思ったのだ。だから、世間とのつながりは、新聞とラジオだけになってしまった。そしたら、自然と新聞を毎日熟読するようになった。気がつくと、やたらと新聞に依存している自分がいた。いつも、夕刊がくるのをいまや遅しと待っていた。政治面なんかもまともに読んでいて、気にしなくてもいいのに、国会情勢なんかもやたらと気にしていた。玄関のところに新聞が配達されるのだけど、バイクの音がするとそこまですっ飛んでいって、投函されたばかりの新聞をもぎとり、紙面を食い入るように見入っては、たとえば、「そうか、竹下が……そういうこと言ったか」とかなんとかその場につっ立ったままつぶやいていた。だって、ほかに気にするべきことがなかったのだ。あのときぼくは、今以上に活字人間化していた。つまり、映像情報というものを断つことによって、そのほかの部分に栄養がいって、発達を促されたというわけだ。結果、二浪するはめになって、テレビを買い、こんどはテレビ漬けになるというオチが待っていたのであるが……

で、今日の結論なんだけど、今、自分が一番「依存」しているものは何か、と考えてみたら、それはやっぱり翻訳だろう、と思う。翻訳に寄りかかって、翻訳という夢を自分に見させることで、ぼくのSelfは成り立っている。それを奪われたら……。まったく想像もできないし、怖い。もし翻訳を一生するな、と言われたら、自分が自分でなくなってしまいそうな気すらする。けっして道を究めたとかそういう意味ではなくて、翻訳という大樹の下で自己を庇護してもらっているだけなのだけど。そして、直視したくないけど、実は、ぼくはたまたま翻訳という道を選んだ、というか選んだと思い込んでいるだけなのかも知れないのだから、本当は翻訳なんてなくても生きていけるのだと思う。ぶっちゃけた話。ちょうど、チョコレートや肉食やコーヒーを止めても生きていけるように。

だけれども、やっぱりそれはできない。世間の方から、「もうやるな」といわれるときがくればそれでお終いだけれど、(そしてその可能性はかなり高いのかもしれないが)、自分から翻訳をSelf-depriveする勇気はない。翻訳に限らず、ジョギングも、本も、ラーメンも、止めるつもりはない。つまり、僕という存在は、それだけいろんなものに依存しているというわけだ。それに、いままで散々いろんなことを止めてきたから。ものすごく中途半端に。だから、この最後の砦の翻訳だけは、止めたくないと思ってる。本当は、そういうものをすべて剥ぎ取って、それでも残った自分がコアな自分なんだと思うけど、そしてそういうコアな自分、何事にも左右されない強い自分を持っている人はすごいと思うんだけど(でも、そんな人ってどれだけいるのだろう?)、ともかく、ちょっとした後ろめたさを感じながらも、翻訳に存分に浸っていることによってしか生きる価値を見出せない自分というものまた、それはそれですごい修行の道を歩んでいるのではないだろうか、などと感じたりもしているのである。つまり、翻訳断ち、はできないが、翻訳は俺の最高の「ダチ」だぜ、というわけなのだ。え~、ゴホン。おあとがよろしいようで。


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ラーメンと古本の聖地、西荻窪に出陣
知人オススメの「ひごもんず」で角煮ラーメン。とんこつはあまり手を出さないのだが、ひさしぶりに食べると美味しい。店員さんの感じもよい。
古本屋「音羽館」。初めていったけど、とてもよい店だった。品揃えもいいし、店の雰囲気もすごくいい。結構理想の古本屋かも。西荻った甲斐があった。定番になりそうだ。以下の7冊を購入。
『歩くひとりもの』津野海太郎
『これが答えだ』宮台真司
『アメリカ外交とは何か』西崎文子
『ブッキッシュな世界像』池澤夏樹
『現代思想入門』別冊宝島44
『日本の真実』大前研一
『新しい国家を作るために』榊原英資





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2 コメント

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なんだかホッとしました (ぼぼぼ)
2007-12-21 01:26:59
こんばんは、先日の忘年会ではありがとうございました。コメントを書くのはこれが初めてです。

読みながら、「ひょっとして、これからしばらく末尾のブックリストがなくなるのかしら?」なんてドキドキしながら読んでいたのですが、翻訳はやめない、ブックリストも健在、ということでホッしました。
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Unknown (iwashi)
2007-12-21 10:32:17
ぼぼぼさん

書き込みありがとうございます!先日は楽しかったですね。

そうですね。活字を読むことはだけは止めないだろうという確信はあります。本を読むことを止めよう、と思ったとしても、まずは「読書を止める方法」みたいな本を読み始める予感が。なんでも活字から入るタイプなので。もちろん、翻訳もやめません。翻訳の方から見切りをつけられる日まで。
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