イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

何が彼女にそう訳させたか

2007年12月19日 02時12分15秒 | 翻訳について

「ディレクターズ・カット」とは、一度公開した映画を、監督が後年あらためて自らの意思どおりに編集し直して再公開することを指すわけだが、この言葉を聞くと、反射的にリドリー・スコットの『ブレードランナー』を思い出す。15年くらい前になるだろうか、京都の美松劇場(だったと思う)で大好きだったこの映画を観た。ラストシーンを変えるだけで、映画全体の意味合いが変わる。それは本当に衝撃だった。映画では、さして重要ではないと思えるシーンが間に挿入されるだけでも、物語は微妙にそれまでの軌道を外れ、まったく異なったメッセージを放ち始める。それまで唯一無二の存在だと思っていた映画は、実は無限の可能性のなかから選ばれた、一つの偶然であることがわかる。例えそれが必然と呼ばれるほどの完成度を持っていたとしても、だ。わずかな編集を加えるだけで、作品は色あせたり、輝いたりする。

翻訳は、何度も何度も繰り返し校正をする作業だ。プリンタで印刷をして紙上で見直しをすることも数回行うから、あとで振り返ると、版が変わるごとに、その都度、訳文が変化していったのがわかる。原文の解釈にしても、文体にしても、表現や用語にしても、ちょうど昆虫が幼虫からさなぎ、さなぎから成虫になるみたいに、少しずつメタモルフォーゼしていく。そして最後には決定稿となって羽ばたき、訳者の手元を離れていく。その後、チェッカーや編集者の手によって、訳文にまた新たな息吹が与えられ、晴れて完成稿、となるわけだが、ディレクターズ・カットをしてしまう監督の心境と同じく、訳者のこころの中にも、どんなに時間をかけても、まだ手を入れたりないという部分がどこかに残っているはずだ、と思う(もうみたくないという人も多いと思うが)。でも実際は、いったん生まれてしまえば、その訳文にはもう愛着というか個性というか、そういう属性が備わってしまっているので、あえて直したいとは思わない、という風に感じることが多いようである。実際、僕もそうだ。

いずれににしても、ディレクターズ・カットの例を見てもわかるとおり、訳文というものは、かならずしも訳者の意図が100%反映されているものではない。どんなに上手く訳されたものとしても、訳文というものは必然的にそこに存在しているというわけではなく、むしろ無限の可能性のなかからなかば偶発的に生まれてきた一つのインスタンスであるといえるのだ。そして、たった一文を変えるだけで、パラグラフが、トピックが、チャプターが、あるいはテクスト全体がまったく違った意味合いになることもありうる。

何が彼女にそう訳させたか、ということの本当の真相は、誰にもわからない。それは彼女本人にもわからない。彼女の指を調べても、彼女の脳の中を覗いても答えはない。ちょうど、今日この一日をどう過ごすか、ということに正解がないように。あの日あの時あの場所で彼女が訳したものが、訳文となって世の中に生み出される。違う日に、彼女に同じ原文を訳してもらっても、まったく同じ訳文が生まれてくることはない。翻訳とは、人生の他の多くの現象にも似て、一回しか起こらない奇跡なのだ。

書き手にせよ、読み手にせよ、完成された唯一の原文があり、完成された唯一の訳文がある、とつい思ってしまいがちである。でも実は、現実界の実相というのは、そうではない。ありとあらゆる組み合わせの可能性のなかから生まれた、表層。それがテクストであり、訳文である。ただし、その偶然が、取り返しのつかない必然として世に出てしまうことが翻訳のスリルであり、怖さでもあるのだが。そして、ディレクターズ・カットなる特権を行使する僥倖を得る訳者も、映画の世界と同じくごくわずかなのだ。
(ちなみに、書籍の場合、重版の際にいろいろと修正ができることもあるから、映画監督よりは恵まれているといえるだろう)

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FアカデミーでS先生の授業。自分の訳文が俎上にのり、身が引き締まる。先生にいただいた指摘を、しっかりと脳に刻み込もう。その後、元加賀山組の5人で、246カフェでプチ忘年会。翻訳談義ふくめもろもろの話で盛り上がる。今年1年、Fアカデミーに通って本当によかったと思う。Hやしさん、どうもありがとうございました。いろんな人と出会えたし、本当に勉強になった。来年ももっともっと学びたいと思う。

『幻詩狩り』川又千秋
『終わりなき孤独』ジョージ・P・ペレケーノス著/佐藤耕士訳
『テクノノススメ』hideo sakuma
『蹴りたい背中』綿矢りさ
『水曜の朝、午前三時』蓮見圭一
の5冊を駅前のBIで。

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