イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

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2008年01月24日 23時16分48秒 | ちょっとシリアス
野良たちよその貼紙読まなくていい「猫のふんに困っています」
「猫のふんに困っています」の貼紙の下に野良たち寄り添っていたり
野良5匹「猫のふんに困っています」の貼紙みてある日姿消した
「猫のふんに困っています」の貼紙目の前にしてぼくたちも困っていますミャー

(解説)猫の集会場になっている近所の小さな小さな公園(別名『猫の額公園』)には、いつも5匹の猫がいて、エサをあげている人も多く、自分も猫を見たり、たまにエサをやるのがとても楽しみなのだけど、つい先日、その公園に「猫のふんに困っています」という文章を書いた紙が貼りだされた。たしかに、エサだけでなく、最近は寒さが募るにつれ、ダンボールとかタオルとか、猫を寒さから守るグッズも多く置かれるようになり、狭い公園に5匹もの猫がひしめいていると一種異様な空間なりつつあった。猫が嫌いな人はぞっとするだろうし、猫のふんで困っている人もいるのだろう。貼紙には、家につれて帰って飼うなり、避妊治療をするなり、マナーを守りましょう、と書かれてある。連絡先が市になっていたから、近所の人からの苦情を受けて、市が貼りだしたのだろうと思う。さすがに、大きな文字でそう貼紙に書かれると、エサをあげる人もほとんどみかけなくなったし、ダンボールも、タオルも公園からなくなってしまった。

ぼくももういい年した大人なので、いくら自分が猫好きでも、そういう苦情をいう人のことについてとやかくいうつもりはない。というか、むしろ筋の通った話だろう。あの公園は、猫に関していえばちょっとした治外法権の場と化していたし、近所に住んでいる人のなかには、いろんな人が入れ替わり立ち代り来てはエサをあげていくことに対して、苦々しく思っていた向きもあったに違いない。そもそも、世の中には、猫そのものが嫌いという人だってたくさんいるのだから、しょうがない。僕にだって、嫌いなものはたくさんあるじゃないか。

それでも、せつない。やっぱりせつない。大人になって、世のなかのしくみが少しはわかるようになったから、それだけにせつない。あの猫たちは、どこにいけばいいのか。あの猫たちに、罪はあったのか。あの猫たちは、この冬の寒さをしのげるのか。

本当は、僕が猫を飼える家に住んで、あの猫たちを引き取ってやればよいのだろうけど、残念ながらそこまですることはできない。そう考えると、やっぱり自分は都合のいいときだけあの野良たちを可愛がっていたのか、と思う。そういう身勝手さが、きっと人の反感を買うのだ。

人間の都合で捨てられたり、迷惑がられたり、いじめられたりする猫たち。でも、猫を可愛がる人たちはたくさんいる。好きなときだけ、責任を取らずに猫の相手をすることに、批判もあるだろうけど、猫にエサをあげる人たちは、根っこの部分ではとても純粋な気持ちに突き動かされているのだと思う。ほんと、正直な話、猫と一緒にいるとき流れる時間は無垢な本物の世界で、人間の世界に流れる時間は汚れたウソの世界だ、という気がすることもある。現実逃避といわれればそれまでだけど、人類数百万年の歴史をみたら、あのまったりとした時間の流れ――肉球を舐めたり、足で頭の裏を掻いたり、猫のポーズをしたりする猫たちをじっと眺めているような――、というのは、たぶんものすごく普通で自然なものなのだと思う。それが、いつのまにか、こんなにも慌しく、世知辛い世の中に生きている。猫の公園を離れて、5分ほどの距離のところにある団地に着き、入り口でポストを開けると、ポスティングされたチラシが大量に入っている。不要なものばかり。人間、生きるためにいろいろやらなくっちゃいけないけど、本当にこんな人間社会を維持するために、猫を世界の果てにおいやらなくてはいけないのか、と思う。どこかに、公共の猫ハウスみたいの、できないかな~。地域猫っていう制度、昔テレビで見たことがあって、……いまwikipediaで調べたら、けっこう大変だということがわかった。難しいんですね……。猫と人との共存は。

猫たちは貼紙の文字を読めない。だから、朝になるとまだあの公園にいて、5匹がお互いの身体を寄せ合って暖を取っている。寒いときは辛そうな顔をしているけど、ぽかぽか天気のよい日には、気持ちよさそうにまどろんでいたいりする。猫たちは文字を読めなくていい。僕は「文章を読んでいる人」を見るのが好きだから、読めるものなら可愛いあの猫たちにだって訳文を読んでもらいたいと思うけれど、こういうときばかりは猫たちが文字読めなくてよかったと思う。もし読めたら、「人間って身勝手だニャー、えさをくれるかと思えば、迷惑だから出て行けなんて。まったくヤになるミャー。フギャー」とあきれることだろう。しばらくはまだあの公園にいてくれそうなのだが、一匹も姿がみえない日が続くと、とうとう猫たちはどこかに引っ越してしまったのではないかと心配になる。ともかく、猫を見たさに、信号を一つ余分に渡って、明日も行きと帰りにあの公園に立ち寄ろう。

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『恋文』連城三紀彦
『愛の倫理』瀬戸内晴美
『刺青』藤沢周
駅前のブックアイランドで3冊


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