おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日(8月13日)は、ほとんど家を出ず、『衆知』(PHP研究所)の11-12月号に載せる文章(連載の4回目)を書いていました。
ところで、8月11日開催の アドラー心理学ゼミナール とお盆がキッカケとなって思い出した恩師の思い出があります。
なお、このことは、よりコンパクトして『児童心理』(金子書房)に書きました。
もともとは20数年前にヒューマン・ギルドのニュースレターの巻頭言に書いたものです。
学校の先生を相撲の星取り表よろしく何勝何敗と、小学1年生から大学卒業までの担任とゼミの先生を評価すると、対象の9人は、5勝3敗1引き分けになります。
そのなかで小学校5~6年の担任の宮澤先生は6年の途中まで×だったのに最後は○に変わった特殊なケースです。
これは『勇気づけで生きる』(ヒューマン・ギルド出版部)にも勇気くじきの例として書いたことなのでご存知の方もいらっしゃることでしょう。
小学4年生の担任のS先生がとてつもない暴力教師であったため、反動で5年生の私は、先生が手の着けられない問題児になっていました。
授業中机の上を歩く、授業は妨害する、先生のことをガニと呼んで嫌がらせをする、学校の器物を破損する、等々、とんでもないことばかりしていました。
宮澤先生をとても許せないと思ったことは、多分何人かで器物を破損したときのことです。
宮澤先生は、隣のクラスの担任になっていたS先生の助けを借りて、当事者の一人ひとりを廊下に呼び出してはS先生がビンタを食らわしていたことです。
大声とビンタの音が教室にもこだまします。
大きなビンタの音と同時に小学5年生の小さな体が廊下で大きな音を立てて倒れる音がします。
教室内の生徒達は怖がって肩をすくめ廊下を見る者がいません。
あと何人かすると私の順番でした。私は決意しました、ビンタをされる前に抵抗しようと。
S先生が担任だった4年生の時は、ドッチボールをする際は、腹が立って腹が立ってS先生ばかりをめがけてボールをぶつけていたことがあります。
すると、S先生からは手加減のないボールが返ってくるのでした。我を忘れてぶつけ合いをしていたのでした。
そんなことを思い出しながら私は自分の決意をより確かなものとして温めていました。
バチバチ、バターンの音の繰り返しのなかで「もう限界だ!」と思いました。
S先生のことばかりでなく、宮澤先生にも復讐心を抱きました。
私の決意に基づく作戦は、S先生から攻撃される前にS先生の急所を思い切り蹴飛ばすことでした。
かりに失敗してもやられることは同じ。
だとしたら精一杯の抵抗をすることで4年生時の体罰に対するを復讐しようと決心していました。
幸か不幸か、終業ベルが鳴って私の決意は実行されずに終わりました。
それ以来私はますます問題児になっていきました。
これは中学に入って聞いたことですが、私とO君(彼は今その道のプロとしてヤクザをやっている)の二人が要注意人物として申し渡しがあったそうです。
小学6年生が終わりに近づいたある日、多分何かを私がしたのがキッカケだったのでしょう。
宮澤先生は、突然授業を中断してみんなに言いました。
「みんな自習をしていて下さい。先生は岩井君と話をしてきますから」
宮澤先生は、ふだんとは違った毅然とした態度であることに私は驚かされました。
「なんだよガニ」
「いいから来なさい!」
宮澤先生は、私を宿直室に連れていきました。畳の上に正座して
「岩井君も座りなさい!」
宮澤先生は迫力を伴っていました。
続いて言いました。
「岩井君、今から私が話すことは教師を辞める覚悟で言うのだということを理解して下さい」
今では具体的にどう言われたか、内容の肝心な部分を忘れてしまいましたが、私の兄や姉のこと、PTA 副会長であった母のこと、私には素晴らしい可能性があること、それなのにいつまでバカなことを続けるのか、といったことだったような記憶があります。
時間にすれば15分くらいだったでしょうか?
最後に私は、両手をついて「宮澤先生ごめんなさい。今日限りバカなことはやめます!」と誓いました。
教室に帰ると、ワル仲間が「ガニになんて言われたんだ?」と聞かれましたが、その問いに答えず、「今日からオレはバカなことをやめる」と答えました。
教師を辞める覚悟で私と向かい合った、信頼に基づく対決の姿勢に今でも感謝の念で一杯です。
2年間の担任の最後の数ヶ月のうちの15分で私はためらうことなく宮澤先生に◎を付けさせていただく幸せを感じます。
<お目休めコーナー> 8月の花(10)