アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリング、コンサルティングを行っています。
アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



こんにちは。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

昨晩から今朝にかけて「睡眠時無呼吸症候群」の検査入院をしてきました。

この「睡眠時無呼吸症候群」と、検査入院体験に関して数回に分けて書きます。


ところで、あなたは、「睡眠時無呼吸症候群」という症状をご存知でしたか?

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

「睡眠時無呼吸症候群(sleep apnea syndrome;SAS)とは、睡眠時に呼吸停止または低呼吸になる病気である」

とあり、症状は、

強い眠気、抑うつ、頻回の中途覚醒、集中力の低下、(家族などが気づく)睡眠時の呼吸の停止、(家族などが気づく)大きないびきなど
、とのことです。


 「睡眠時無呼吸症候群」は、NHKの番組でも紹介され話題になりました。


検査入院した荻窪中尾耳鼻咽喉科医院(中尾雄二院長、http://www.sas3387.jp/、電話:03-5335-3387) のホームページを見ると、さらに次の記述を読むことができます。。

「無呼吸が1時間に20回以上に達するような中症度から重症度になると心筋梗塞や脳卒中を引き起こしたり、高血圧、糖尿病の原因になります。このような危険な睡眠時無呼吸症候群は大いびきをかく人の7割に見られると言われています」

これは、放ってはおけない危険な病気ですね。

私には、その疑いがあったのです。


<お目休めコーナー> 32歳になる息子撮影の海中写真⑤



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第8回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。

8.アドラーは、⒜生涯ユダヤ教徒だった。⒝ユダヤ教からプロテスタントに改宗した。


答えは、⒝ユダヤ教からプロテスタントに改宗した、です。


この話は有名で、ご存知の方が結構いらっしゃることでしょう。

アドラーは、ユダヤ人家庭に生まれ育っていても、信仰にはそう熱心ではなかったようです。

エレンベルガーの『無意識の発見 下』によれば、アドラーのもともとの家族にしても、彼らはユダヤ人であることに何の拘束も感じていなかったので、プロテスタントやカトリックに改宗しても、先祖に対する裏切りだとか仲間のユダヤ人への不義だとかいう気持ちをあまり抱かず(P.191)、やがてアルフレッド・アドラー一家も、彼の妻ライサ(注:彼女は当時、トロツキーとも親交のあったバリバリのマルクス主義者)を除いて、彼と2人の娘ヴァレンティーネとアレクサンドラが1904年10月17日(注:アドラー34歳の時)にドロテーアガッセのプロテスタント教会で洗礼を受けました。

フィリス・ボトムによると、アドラーはユダヤ教が一民族だけのためであることに不満で、「人類の普遍的信仰と共通の神を信じ」たいとアドラーが思っていたことによるのだそうです(P.203)。

以上がアドラーのプロテスタントに改宗の物語でした。


(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。


<お目休めコーナー>(もしかしたらこの写真はグロテスクで「お目休め」にならないかも)
32歳になる息子撮影の海中写真④





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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

昨夕から今朝にかけて箱根仙石原(写真)の、電波の届かない企業の研修所にいたため、今、小田原の喫茶店でアップしています。

お陰様で昨晩、今朝(5時)の温泉を満喫できました。



さて、「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第7回目の解答です。 クイズの問題は、下記のとおりでした。

7.アドラーは、⒜医学博士だった。 ⒝博士号を持っていなかった。



答えは、⒝博士号を持っていなかった、です。


『アドラーの生涯』(エドワード・ホフマン著、岸見一郎訳、金子書房)では、「1895年11月22日に(アドラーに)医学博士の学位が与えられた」と訳されています。

一方、『無意識の発見 下』(アンリ・エレンベルガー著、木村敏・中井久夫監訳、弘文堂)では、「1895年11月22日に医学士の学位が授与された」と訳されています。

厳密に言うと、アドラーが授与されたのは、「医学士」であって「医学博士」ではありません。

アドラーの友人でもあり、アドラーの伝記作家でもあるカール・フルトミュラーは、ハインツ・アンスバッハー/ロワナ・アンスバッハー編著の『優越性と共同体感覚』(“Superiority and Social Interest”、写真)の巻末のアドラーの伝記でアドラーの著書『器官劣等性の研究』にまつわる話として、次のように記述しています。



「若い一般開業医(young general practitioner)によってこのような専門書が書かれたことは、極めて異例なことでした。さらには、医師(medical doctor)の他には何も学術的な身分を持たない著者の本がたちまち専門家の関心を勝ち得たことも異例でした」(P.340)

もしかしたら晩年アメリカの地でどこかの大学から「名誉博士」の学位を得たことがあるかどうか知りませんが、アドラーが医学博士でなかったのは確かです。

それではアドラーがなぜ「アドラー博士」と称されるのでしょうか?
それは、“medical doctor”(医師)と“doctor with a major in medicine”(医学博士)とは、ともに“doctor”であるからです。

“Doctor Adler”と英語で表記されると、「医師」なのか「医学博士」か識別不能なのです。

以上から「アドラーは、医師ではあったけれども医学博士ではなかった」ということになります。


(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。

 

<お目休めコーナー>  32歳になる息子撮影の海中写真③




<研修所の庭で撮影した花>



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

5月27日(火)、28日(水)と2日間、首都圏の某自治体連合の主催する研修(「政策形成研修講師養成講座」)でプレゼンテーションの研修を行ってきました。

5月27日(火)は、正規の受講生19名に一般公募でこの日だけ参加する9名を加えた計28名に対して「政策形成の基本である、他人に自分の意見を説明し、説得するという交渉能力、大勢の人に意思を伝える発表能力、併せて、聴いている人に効果的な講義技法について学びます」という趣旨に沿った、伝え方の研修でした。

28名の参加者は、私の講義やデモンストレーションを受けて、2人、4人、7人の単位で、ステップ・バイ・ステップの訓練方式と、パートナーによる勇気づけを用いて自己紹介を繰り返しながら、3時間後には人前で1人ひとりが堂々と話せるレベルまで到達しました。

28日(水)には、まず、19名の正規の受講生が4グループに分かれ、「政策形成概論」を各自5分ずつ講義し、それに対して(1)自己フィードバック、(2)辛口フィードバック、(3)勇気づけフィードバックを行いました。

これに続いてもう1度各自5分の講義をすると、内容、表現法とも自分も周囲も驚くほどの力量を発揮できました。


私の「売り」は、たちまち表現法、プレゼンテーション・スキルを向上させてしまうことで、昨年同じ研修を行って好評だったために今年も私に講師のお鉢が回ってきました。


私は、外でばかりで表現法、プレゼンテーション・スキルの研修を行うのでなく、ヒューマン・ギルドでも、主に教師を対象として同じ趣旨の研修を開く責務を感じ、下記のとおり、今年1回だけの講座を開くことにしました。
2学期になって生徒を驚かせることができる、楽しみな講座です。

講座名:「1日でたちまち授業の腕を上げる講座」

日 時:8月30日(土)10:00-17:00

場 所:ヒューマン・ギルド研修室

受講料:ヒューマン・ギルド会員 12,000円、一般 15,000円

申込み:ヒューマン・ギルドのホームページ「行事予定」(
http://www.hgld.co.jp/event1/index.html )の「申込みフォーム」から




某社小集団活動大会での講演会風景


<お目休めコーナー> 32歳になる息子撮影の海中写真②



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第6回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。


6.アドラーは、フロイトと決別してすぐに⒜自由精神分析学協会 ⒝個人心理学会を設立した。



答えは、⒜自由精神分析学協会です。

アドラーは、ウィーン精神分析学協会をシュテーケルなどと離脱して数カ月して自由精神分析学協会を発足させ、同じ1912年には、精神分析色を一掃した『神経質性格について』を出版します。
この本は、今日に伝わるアドラーの目的論、現象学(認知論)の考えが現れています。

1913年には、もはや自分の考えは、精神分析から大きくかけ離れていると感じたアドラーは、グループを完全に精神分析から引き離し、名称を個人心理学会としました。


(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。



<お目休めコーナー> 32歳になる息子撮影の海中写真①

 



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第5回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。


5.アドラーは、フロイトの陣営で最後は⒜国際精神分析学協会 ⒝ウィーン精神分析学協会の会長を務めた。


答えは、⒝ウィーン精神分析学協会です。


国際精神分析学協会の初代会長は、カール・グスタフ・ユングです。


ここであえてジークムント・フロイトのこと(1856-1939)を書きます(この部分は、小此木啓吾著『フロイト』講談社学術文庫を参照)。

フロイトは、依存的と言っていいほど人に惚れ込む性癖があり、第1は、ブリュッケ研究室で知り合ったブロイアー(当時のウィーンで高名な開業医)。
フロイトは、彼と特別に親しくなり、かなりの期間、金銭の借財や贈与を受けただけでなく、ヒステリー患者O・アンナに対する催眠を使った治療情報を受けました。

第2の惚れ込みは、親友フリース(フロイトより2歳年下の耳鼻科医)との交流に見られ、フロイトは、フリースに1887年から1900年の間に284通もの手紙を残しています。1年当たり換算すると、約220通。3日に2通近くになります。
また、慢性の副鼻腔炎の手術を受けただけでなく、フロイトの言うノイローゼの治療なども受けています。

第3の惚れ込みは、カール・グスタフ・ユングに対して。
ユングは、1904年、チューリッヒ大学の精神科教授のブロイラーの助手を務めていて、彼らがフロイトの「ドーラ分析」と呼ばれる症例に注目したのがキッカケで、フロイトとユングは、1906年に出会い、以来親密な文通を続け、俊才ユングに魅了されたフロイトは、ユングを「跡継ぎ息子」とまで呼び、1909年、フェレンツィを交えて渡米します。
3人は、ジョージ・ワシントン号の船中でお互いの夢を分析し合うようなこともします。
そればかりではありません。ユングに肩入れしていたフロイトは、第1回の国際精神分析大会をユングの主催下で1908年4月26日にザルツブルグのホテル・プリンストルで開きます。フロイト52歳、ユング33歳(アドラーは38歳)の時でした。
さらに1910年、国際精神分析学協会が設立されると、会長にはフロイトの後押しでユングが就任します。

以下は、『初めてのアドラー心理学』をもとにします。

フロイトのユングへの度を外れた肩入れにウィーンのグループは不満を持ち、国際会議も険悪になります。そこでフロイトは、ウィーン派の代表格アドラーをウィーン精神分析学協会の会長に譲ります。
言わば、フロイトが国際派とウィーン派との棲み分けを図った結果の措置だったのです。


長い長いアドラーのウィーン精神分析学協会会長就任物語でした。

写真は、すぐ下の左がフロイト、右がユング

 

 

(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

アドラー・クイズの第4問は、以下のとおりでした。


4.アドラーは、フロイトの⒜弟子であった。⒝弟子であったことはない。


この答えは、あなたのスタンスで決まります。

あなたがアドラー派の立場であれば、正解は⒝ですが、フロイト派の流れを汲む人ならば、⒜が正解になります。


まず、フロイト派の流れを汲む立場から解説します。

この立場では、必ずアドラーをユングと共にフロイトの弟子扱いをします。
理由としては、1902年からフロイトが始めた「心理学水曜会」の最初のメンバーであり、1911年にフロイトのグループを抜けるまで中心的な地位を占めていたことを上げます。


しかし、アドラーは、「心理学水曜会」に所属する前から独自の理論を持っていたし、さらにアドラー自身もこの件に関し次のように述べています。

「フロイトと彼の弟子たちは、明らかに自慢するように、私がフロイトの弟子であったと言うことを好む。私が精神分析のサークルでフロイトと大いに論争したからである。しかし、私は一度もフロイトの講義に出たことはないのである」(『生きる意味を求めて』アルテ、P.207)

「私は彼の誤りから学んだのである。私自身は、一度も精神分析を受けたことはない」(同書、P.206-207)


フロイトの弟子である条件は、フロイトの講義や精神分析を受けることだとすると、アドラーは、フロイトの弟子であったことはない、という結論になります。

それはそれとして、アドラーは明らかにフロイトから学んでいます。
それは、「私は彼の誤りから学んだのである」とアドラーが言っているように、フロイトを反面教師として、まったく相反する理論構築をするのにフロイトの考えを役立てたことは間違いありません

 



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

昨日は、青森公立大学での集中講義、そして、本日は、青森市内で「勇気づけで人おこし」の1日ワークショップを行います。

さて、「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第3回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。


3.アドラーの最初の著作は、⒜『器官劣等性の研究』 ⒝『仕立業のための健康書』だった。


答えは、『仕立業のための健康書』です。


アドラーの最初の著書は、フロイトのサークルにいた1907年出版の『器官劣等性の研究』ではなく、1898年に出版された『仕立業のための健康書』です。

この本は、わずか31ページの小冊子で、アドラーはこの本の序文で、この本を「一定の職業における経済的状況と病気との関係、およびそこから生じる公衆衛生上の害を論じるつもりであること」等を述べています。

ただ、この本(そもそも「本」とは言えそうもない。薬局でくれるような小冊子のイメージ)を読んだ人はおそらくいないのではないかと思われます。その意味では、今日のアドラー心理学との関連では、アドラーの著作として無視してもかまわないと思います。


なお、『器官劣等性の研究』に関しては、かつて金剛出版から出ていた絶版の本を持っていますので、いつかアドラーの著作として紹介するつもりです。


(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。

 

<青森公立大学キャンパスでの写真>



庭に咲く花



共感のセッションで行ったブラインド・ウォーク



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アドラーの生涯
エドワード ホフマン
金子書房

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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
今、青森のホテルにいます。
今日は、青森公立大学での今期2度目の集中講義です。

さて、「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第2回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。

2.アドラーは、⒜最初は眼科医だった。⒝最初から精神科医だった。



答えは、⒜最初は眼科医だった、です。

 

意外でしょう。

このことに関しては、アドラーに関して最も詳しく書かれたエドワード・ホフマンの『アドラーの生涯』(岸見一郎訳、金子書房、7,400円+税)を参照します。

アドラーは、1895年(ウィーン大学卒業の年)にポリクリニクでアウグスト・フォン・ロイスものもとで眼科で働き始め(無報酬)、翌年4月1日に兵役の残り半分を務めるため召集された、とのことです(P.31)。

さらには、アドラーは、ウィーン大学当時、精神医学が大学の必須科目でなかったので、正式に精神医学の訓練を受けなかったことも明らかです(P.29)

以上の事情から、アドラーは、最初眼科医だったことになります。


それはそれとして、10数年前、ハロルド・マッカビー(『家族カウンセリングの技法』一光社、の共著者)という、当時国際アドラー心理学会の会長が来日した際、アドラーが最初眼科医として医師生活をスタートしたことは、「見える世界(現象学的世界)」に関心を持ち、その後のアドラーの理論形成に大いに役立ったことを講演で語っていたことが思い出されます。


 <お目休めコーナー> 東光寺(中野区)の庭に咲く花

 


 



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無意識の発見 下―力動精神医学発達史
アンリ・エレンベルガー
弘文堂

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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第1回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでしたね。


1.アドラーは、⒜オーストリア人、⒝ハンガリー人として生まれた。


答えは、⒝のハンガリー人です。


欧米において心理学の3大巨頭と言われる「フロイト・アドラー・ユング」の中で相対的に知名度の低かったアドラーの名を高めた精神医学史家のアンリ・エレンベルガーの
『無意識の発見 下』(1970、木村敏・中井久夫監訳、弘文堂)には次のように書かれています。

1870
27日にウィーン郊外のルドルフスハイムで生まれたアドラーは、「オーストリア人ではなくハンガリー人として登録され、ハンガリー語を話さないのに、ハンガリー国民であり、ウィーンではオーストリア人にしか認められないいろいろな権利を与えられなかった(彼は1911年にようやくオーストリアの市民権を得た)」P198

189641日から930日まで、兵役の残り半分を務めるためにハンガリー人部隊に入隊し、プレスブルクの第18陸軍病院にアラダール・アドレルというハンガリー名で勤務した」P202

ということは、オーストリアのウィーン郊外で生まれたアドラーは、戸籍上は、ハンガリー人として生まれて、41歳までハンガリー人として育ったことになります。

ただし、下の地図をご覧いただくと分かるように、当時は、今のオーストリアのイメージではなく、オーストリア=ハンガリー帝国だったことも世界史の知識として覚えておかれると便利です。


 

<お目休めコーナー> サフィニア


 



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

アドラーの本の紹介が一通り終わったので、次の企画は、「人間アドラー」を巡ってのクイズです。

さーて、下のクイズにチャレンジしてみましょう(資料参照不可、3分間で解答のこと)。

1.アドラーは、⒜オーストリア人、⒝ハンガリー人として生まれた。

2.アドラーは、医師として⒜最初は眼科医だった。⒝最初から精神科医だった。

3.アドラーの最初の著作は、⒜『器官劣等性の研究』 ⒝『仕立業のための健康書』だった。

4.アドラーは、フロイトの⒜弟子であった。⒝弟子であったことはない。

5.アドラーは、フロイトの陣営で最後は⒜国際精神分析学協会 ⒝ウイーン精神分析学協会の会長を務めた。

6.アドラーは、フロイトと決別してすぐに⒜自由精神分析学協会 ⒝個人心理学会を設立した。

7.アドラーは、⒜医学博士だった。 ⒝博士号を持っていなかった。

8.アドラーは、⒜生涯ユダヤ教徒だった。⒝ユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。

9.アドラーが「共同体感覚」に言及する場合、「共同体」として思い描いていたのは、⒜理想の共同体 ⒝現実の共同体である。

10.アドラーは、⒜「勇気」という言葉は頻繁に使うが、「勇気づけ」という言葉をさほど用いていない。⒝「勇気づけ」を自分の心理学の中心概念に添え、ことあるごとに言及している。


あなたなりにコピーしてどこかに解答を記録しておくと便利です。

正解は、1.から順番に、飛び飛びになりながらも10.までじっくりお伝えします。お楽しみに。

<お目休めコーナー> ペチュニア



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

身辺の整理・整頓が苦手な私でも、情報の収集・整理に関しては、比較的マメなほうです。

大学を卒業してから中小企業診断士の資格取得のための猛勉強をしていたときは、そのためによく「京大型カード」を使っていました。



ノートにメモをするのではなく、1つの内容をA5サイズ1枚のカードにメモをするのです。本や雑誌のコピーを切り取って張るようなこともしていました。


先日、書斎のカード・ケースを開いてみたら、京大型カードが数百枚ありました。
当時は、サラリーマンでありながらよく勉強していたな、と懐かしくなりました。


今は、かつて京大型カードに書き込みやコピーの貼り付けをしていたものがパソコン・ソフトの「パワーポイント」に代わっています。

パワーポイントのメリットは、作成が比較的簡単、しかも一度作成したらいつでもラクに修正ができることです。

単なる情報収集が目的で、どこでどう使うか分からないときは、「未分類」のとりあえず入れておいて、用途が決まったら分類し直せばいいのです。

京大型カードに比べてパワーポイントの効率は、100倍以上であることは確実です。


私の研修は、95%パワーポイント利用です。

すでにおそらく2,000は優に越えているだろうと思われるスライドがあるため、あるテーマの講演か研修の依頼を受けたら、既製のスライドを並べ替えたり、一部作成したりすることで、ごく短時間で資料ができてしまいます。これに背景画をつけ、アニメーション機能を利かせれば、立派なプレゼン用のファイルのできあがり。


人前で話す機会のある人には、「パワーポイント、使わにゃ損、損」という感じです。


その気のある方は、私の個人レッスンを受けてみませんか?
たちまち使える方法を伝授します(有料ですが)。その際は、ついでに作成したファイルも一部差し上げちゃおうかな。


<お目休めコーナー> あなたの心に咲くバラ④



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

新たに始めた「読む顔写真」シリーズの第3回目は、河村博旨さんです。


河村さんは、元函館大学学長(13年間学長職、現在名誉教授)、今は東京で株式会社 ヴィア・ホールディングスで常勤監査役をしておられます。

河村さんと私とのご縁は、会沢信彦先生(当時は函館大学専任講師、現在は文教大学准教授)を通してのお声がかりで2000年末に私が学生対象の講演をさせていただいたのがキッカケで、それがもとで2001年から2003年まで函館大学の特別(非常勤)講師として「チーム・マネジメント論」を担当させていただきました。


河村さんは、「人たらし」です。独特のおおらかさ、人なつっこさですぐさま人と結びついてしまいます。

「人たらし」は、出会いのときだけでなく、人を見送る時も十分発揮されます。

写真は、私がある方をお連れしてヴィア・ホールディングスの常勤監査役室に4月24日にお邪魔した時の写真ですが、退席時、同じフロアのエレベーターどころか、ビルの外に出て、門を曲がるところまでお見送りくださいました。ここまでなさる方には、まずお目にかかれません。



河村さんは、人脈を大切にされるために個人で2,000枚、会社用で600枚の年賀状を書かれるとのこと。

次に、河村さんは、大の勉強家です。

ご専門の会社法だけでなく、歴史・宗教から自己啓発関係の本まで読みまくります。その数は、66歳で函館から東京に来られてから間もなく1,400冊(現在69歳)。留まることを知りません。
5月12日(月)の宮西さんの講演会にもいらっしゃいました。

河村さんは、大学院修了後、証券会社勤務、そして大学教授・学長も、今や大手企業の常勤監査役。

「二生を生きる」という言葉がありますが、三生を生きる河村さんではあります。


<お目休めコーナー> あなたの心に咲くバラ③



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「5月の身辺雑記」風に書きます。

5月1日から左足親指に痛みが走りました。10数年ぶりの痛風の症状です。
この痛みがしぶとく、5月3日、4日、5日の3日間ヒューマン・ギルドで開催したSMILEリーダー養成講座には、タクシー通勤せねばならないほどでした。

私は、昨年の11月に中野区の健康診断では尿酸値8.2であったものが、3月に近くの医院で再度測定した際は、安全範囲の6.7になっていたため安堵していました。
「それなのに」なのです。

妻は、献身的にこんにゃくシップやさといもシップ(詳しくは妻の5月6日付けブログ「ままごと日記」 http://polianna.exblog.jp/ 参照)をしてくれました。

その最中、私のモードは、遠い昔の人気テレビ番組「シャボン玉ホリデー」(ある世代以上の人でないとご存知ないでしょうね)に入ります。

私は病床に伏すハナ肇、妻はザ・ピーナツの双子のどちらかのイメージ。

娘は、「おとっつぁん、おかゆができたわよ」と、けなげに父親におかゆを食べさせようとします。

父は、ふとんからやっとのことで起き上がりながら娘に言います。

「いつもすまないねー」

布団に横たわる私は、ハナ肇に同一化して妻に言いました。

「いつもすまないねー」


妻は、「すまないねー」の言葉を嫌がりました。

「『すまないねー』じゃなく『ありがとう』と言って」


確かにそのとおりです。

「すまないねー」と言うと、自分が情けなく、相手に悪いことをしているような気がするのです。相手も感謝されたようには思えません。

「ありがとう」と言うと、相手に感謝が伝わり、共に喜び合う気分になれます。


かくて懐かしの「シャボン玉ホリデー劇場」は、我が家では、わずか数日で幕を閉じ、「ありがとう劇場」へと移行したのであります。


ありがとう、カミさんよ。


<お目休めコーナー> あなたの心に咲くバラ②

 



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プロカウンセラーの夢分析―心の声を聞く技術
東山 紘久
創元社

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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「アドラー心理学による夢解釈講座」の流れで本の紹介をします。

その本とは、『プロカウンセラーの夢分析―心の声を聞く技術』(東山紘久著、創元社、1,400円+税)です。

この本は、アドラー派の立場から夢解釈をする私にとって70%ほど共通点を見出した本です。

著者は、「はじめに」で夢から得られるメッセージを次のように列挙します。

・夢は自分から自分への手紙です。
・夢は自分の無意識からのメッセージです。
・夢は現実では生きられない自分の分身を生かしています。
・夢は危険を防止してくれます。
・夢は身体の変調を知らせてくれます。
・夢は自分の未来を見せてくれます。
・夢は勇気を与えてくれます。
・夢は過去にやり残してきた課題を示してくれます。
・夢のない人生は味気ないものです。
・夢は夢を見させてくれます。
・夢を生きれば、あなたの世界が大きくなります。
・夢は意識的に見ることはできません。
・夢の意味は夢が知っています。
・つまらない夢の解釈は夢を台無しにします。
・夢自体には「吉」も「凶」もありません。
・元気の出る夢解釈はすばらしい解釈です。
・夢のメッセージを読み解かないことは、大事な手紙を読まないのと同じです。


第1部の「夢分析の基礎(夢が人生を切り開く)」では、フロイト派の固定的な、性と露骨に結びつける夢解釈とは立場を異にし、上のようなメッセージを重視する点においては、アドラー派とほとんど一致します。

とりわけ「夢分析では、夢に現れるものは、すべて夢見者の分身と考えています」とか、「夢分析における現実と夢の距離は、ケースの1つひとつで異なるのです。ですから、夢の内容と現実生活に大きなへだたりがあるようなときは、現実の生活をもう少し詳しく見る必要があります」という著者の考えは、アドラー心理学と同じです。

ただし、第2部の「夢分析の実際」にある下記のような夢に関する分析は、やはりやや象徴解釈気味で、ライフ・タスク(人生の課題)を重視するアドラー派の立場との違いが目立ちました。

それでも、次の3つに分類する著者のアプローチは、そこそこ参考になります。

A.誰でも見る夢、身近な夢
①トイレの夢、②食べる夢、③遅れる夢、④飛ぶ夢、⑤ヘビの夢、⑥靴の夢、⑦夢中夢(夢の中で夢を見る)

B.人生節目の夢
⑧自立の夢、⑨性的な夢、⑩結婚する夢、⑪親子・夫婦・家族の夢、⑫死の夢

C.ピンチとチャンスの夢
⑬警告の夢、⑭地震の夢、⑮戦い・喧嘩の夢、⑯渡河・渡海の夢、⑰癒しの夢 

 なお、同じ著者で下の本があります。私も読みましたが、かなり売れているようです。

プロカウンセラーの聞く技術
東山 紘久
創元社

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<宣伝コーナー> 「アドラー心理学による『夢のワーク』1日講座」開催

1.日 時:6月1日(日)10:00-17:00

2.場 所:ヒューマン・ギルド研修室

3.講 師:岩井俊憲

4.受講料:会員 12,000円、一般 15,000円(税込み)

5.進め方:講義・演習・討議・サイコドラマを交えて多彩に展開します。

6.申込み:ヒューマン・ギルドの[行事予定]の申込みフォームからhttp://www.hgld.co.jp/event3/index.html

*アドラー心理学による夢解釈の特徴は、現実の生活体験と結びつけて問題解決にたどり着けることで、この講座を受けられると、あなたは夢を見るのが楽しみになり、夢からしっかりとしたメッセージを受け取り、充実した人生を生きられるようになります。

アドラー心理学をまったくご存知ない方でも、ムリなく参加できます。
アドラー心理学を学ばれている方は、早期回想と並ぶ「夢解釈」の力がつきます。
お申し込みをお待ちしております。


<お目休めコーナー> あなたの心に咲くバラ①



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