①宇治か近江国に退いて東国からの援軍を待つ。
②崇徳上皇を奉じて東国に下り東国武士を招集する。
③先手を打って皇居に夜討ちをかける。
為義が献じた三つの策がことごとく拒否されます
京都育ちのお坊ちゃま・頼長には京都から離れて戦う気などなかったの
でしょうね
前九年・後三年の役のように戦場から離れた京都から命令を出すだけで
何もしない摂関家。
時代は流れているのに権威だけにしがみついて何も変えようとしない頼長。
摂関家が絶対権力を握っていた藤原道長の時代に戻ろうとしていたのでし
ょうが、院政を境に摂関家は凋落する一方ですね
兄弟の争いに勝った兄の忠通は藤原の氏の長者を後白河天皇から認めら
れています
元来、氏の長者は天皇から認められるものではなく摂関家の先見事項なの
です。
忠通にとっては屈辱だったでしょうね
摂関家内部 の事にまで口を挟む後白河、その陰には信西の姿がちらつきま
す
結局、勝っても負けても摂関家が国を動かす時代は終わろうとしていたのです
500年近く続いた藤原氏による摂関政治の終焉ですね。
摂関家に替わり武士による政治が直ぐそこまで近づいていますが、立ちはだか
るのが 朝廷、天皇や新しく力を持った公家がせっかく手にした権力を直ぐには
手放しません
ところで
保元の乱の恩賞で清盛の弟・教盛と頼盛が内昇殿を許される身となりますね
教盛の母は待賢門院の女房で崇徳上皇とも親しく頼盛の母・宗子は崇徳上皇
の子・重仁親王の乳母なのですから教盛と頼盛が崇徳上皇側に付いても不思
議ありません
戦前の見方も崇徳上皇側として見られていたようです。
もし両名が崇徳上皇側に付いていればかなりの軍勢となった筈です。
軍勢の数だけでは勝敗は決しませんが、かなり際どい戦いになったでしょうね。
清盛は勿論ですが、教盛・頼盛に対する戦後の扱いを見ると後白河側も両名の
功績を高く評価していたのは間違いなさそうです
恩賞と言えば…
清盛→播磨守、義朝→右馬権頭→左馬頭、恩賞にかなりの開きがあるようです
ね。
保元の乱で一番活躍したのは義朝だと言われています。
この時の恩賞に対する恨みが平治の乱への引き金になったと言われていますが、
果たしてそうでしょうか??
戦の前の清盛は公卿目前の地位にあったのです
一方の義朝は受領としては最下級の下野守、官位としてはかなり開きがあります
右馬権頭(後に左馬頭)になっただけでも義朝は大出世といえますね