函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

日本一の男・肝付尚五郎!!

2008-02-04 | 歴史
斉彬から於一に「日本外史」が届くとは驚き
ですね
「日本外史」は前回の大河ドラマ風林火山で、
第四回川中島の戦いを『鞭声粛々夜河を過る…』
と漢詩で表した頼山陽が書いたものなのです。
後の尊皇攘夷思想の元になったとも云われている
書物なのです。
察するに、斉彬はこの頃尊王攘夷の考え方を持っ
ていたのでしょうね
特に攘夷、外敵に立ち向かうと云う考え方が強か
ったのではないでしょうか
斉彬のこの考え方の延長線上に薩英戦争があった
のかも知れません。
それにしても女性の於一に「日本外史」を渡すな
んて尋常ではないのです。
この頃から、斉彬は将軍家定の正室として於一を
考えていたのでしょうか??

後に天皇家と幕府が一体となって攘夷にあたる為
公武合体(天皇の妹と将軍の結婚)をする事になる
のですが、その前に外様の大々名、薩摩と幕府の
薩幕合体があった訳です。
いずれにしてもこの時期、朝廷も幕府も大名も外
敵に対して相当の危機感があったのでしょうね
危機感と云う点では意を同じくしても方法、考え
方が全く違うのです
天皇を中心とするのか、幕府を中心とするのか、
はたまた共和国として天皇を含め徳川家や諸大名
の代表からなるメンバーによる合議制になるのか、
十人十色の考え方の集約の作業に入る訳です。
勿論、この作業の為かなりの血が流れるのですが
話し合いだけでは動く時代ではなかったのです

ドラマの中で肝付尚五郎が遂に於一の父忠剛に
告白しましたね
格下の家柄でしかも三男とくれば殆ど可能性が
有りません
忠剛からの返事が以外でしたが…
結果的にこの縁談は破談になるのですが、尚五
郎(後の小松帯刀)は若くして薩摩藩の家老に抜
擢され西郷や大久保を登用し幕末の舵取りをす
る事になるのですら分からないものです
ある意味、今回のドラマのテーマ「日本一の男」
は肝付尚五郎かも知れません

斉彬との対面の席で早とちりをする忠剛ですが
斉彬にとっては逆に好印象に映ったでしょうね
実直な忠剛ですが尚五郎の事と云い薩摩武士の
片鱗を感じるのです

いよいよ来週は篤姫の誕生の様ですが、自分の
運命を受け入れしっかり生きていく姿をじっく
り見てみたいと思っている僕なのです


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8 コメント

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Unknown (iseッチ)
2008-02-05 15:26:11
コウジさんコメント有難う御座います。
教養ではなくただの歴史好きなだけです。
諸外国との関わりの中で斉彬の考え方が
どう変化するのか楽しみです。
又、遊びに来て下さいね。
返信する
深い! (コウジ)
2008-02-05 12:21:23
TBありがとうございます。

「日本外史」からそこまで洞察されるとは。
歴史の教養があると、そこまでドラマを楽しめるんですね。
うらやましい。

今後とも深い洞察、読み込みを楽しみにしています。
返信する
始めまして!! (iseッチ)
2008-02-05 00:34:51
あんのさん、こんばんは。
始めはどこの藩もだいたい攘夷の
考え方が強かったと思います。
列強を相手にするには攘夷だけでは
どうしようもない事に段々と気づくので
しょうね。
返信する
多分!! (iseッチ)
2008-02-05 00:30:15
日本の閉塞感の本質は分かりませんが
上に行けば行くほど責任を取らなくても
良い仕組みになっているところかも??
返信する
はじめまして (あんの)
2008-02-04 23:29:06
はじめまして
トラックバックありがとうございました。

>斉彬はこの頃尊王攘夷の考え方を持っていたのでしょうね

薩摩は、幕末中盤から後半の印象が強すぎてそういう印象がなかったのですが、そう言われるとそうですね。

でも、薩摩の政治は色んな意味で大人でしたからねえ(苦笑)


返信する
日本の閉塞感の本質 (青柳洋介)
2008-02-04 15:56:59
日本の閉塞感の本質が判明した。

上層部が内側に向かってばかり吠えるから。上層部は外へ向かって、つまり世界へ向かって吠えるべき!

要するに、上層部が情けない「内弁慶」にすぎないということでした・・・

おわり

青柳洋介
返信する
こんにちは!! (iseッチ)
2008-02-04 14:14:46
そうなんです。
将軍家にも天皇家にも島津の血が
入っていたと云うことでしょうか。
篤姫と皇女和宮の確執は、裏を返せば
斉彬と久光の確執だったのかも知れま
せんね。
返信する
こんにちはです (ikasama4)
2008-02-04 12:57:53
なるほど、面白い推察ですね。
たしかに斉彬は諸外国から大砲を購入するのではなく
自国で武器を作ろうとしていましたからね。

それはあくまでも諸外国に対抗できる武力を
持とうとした、すなわち「攘夷」思想というやつですね。

おそらく斉彬はこの時から於一を
将軍家の正室に考えていたのは間違いないでしょうね。

京で近衛家と会っていたのもその伏線でしょうね。


そういえば島津久光は公武合体を推し進めようとした
主導者でしたね。

ちなみに自分も最近知ったのですが
島津久光の孫の孫というのが今の天皇さんだそうです。
返信する

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