形式上戦勝祝いとして石川数正を秀吉に派遣
しましたね
一国に値すると言われている天下の名品・初
花肩衝を手土産に…
家康が数正に秀吉の人物像を問いただすと、
「何もかも芝居のようであり、何もかも心の
ままにも思える」との答え
ようは掴み処の無い人物だと言う事なのでし
ょうか?
感情を押し殺した不気味さすら感じます
家康も秀吉の人物像を解説していましたね。
欲に果てがないことだ。何もかもを欲しがり、
持てる力の全てを使って手に入れようとする
そんな秀吉の次の獲物が石川数正なのでしょ
うか?
いよいよ小牧長久手の戦いです
後の小田原征伐と違い、この時点で秀吉に服
従しない大名もいました
長期戦ともなると士気も下がりますが、兵糧
の心配も出てきます
ましてや野戦ともなれば家康に一日の長があ
りますよね
そう考えると、兵数では劣っていても全く無
謀な戦いとまでは言いき切れません
ましてや信雄を旗印としているので、長期戦
ともなれば勝機も出て来ます
しかし、もし秀吉を討ち取ったとしても、家
康がすんなり天下人となる訳でもなさそうで
す
実力者としての家康の存在感は上がりますが、
天下人として全国に号令するのにはまだまだ
紆余曲折がありそうですし、虎視眈々と次を
狙っている武将もいます。
そう考えると、家康は秀吉と全面戦争をする
つもりはなかったのかも知れませんね
局地戦で勝利し、少しでも有利な条件での和
睦を望んでいたのではないのでしょうか?
東郷平八郎が、日本海海戦でバルチック艦隊
を破り勝利したのと同じ構図に思えてなりま
せん
ところで、信長の次男・信雄ですが…
信長の後継者として認知もされず、秀吉と家
康に翻弄された生涯を送ります
信長から絶縁されたり、小田原征伐の後、家
康の旧領への移封を拒否したり、二度の改易
を経て五万石の大名として長らえる事になり
ます
なんともしぶとい人生を歩んだ信雄ですが、
京都で生涯を閉じた時七十三歳だったと言わ
れています。
天寿を全うした訳ですね
どちらかと言うと愚将として有名な信雄です
が、織田の血を現代まで残したのは間違いな
く信雄です
絶縁や改易を二度繰り返しても生き延びたの
ですから、何とも語れない魅力があった人物
の様な気もします
信雄の一生を見ると、頂点を極めるだけが武
将ではない様にも思えている僕なのです