函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

平清盛、男色は当たり前!!

2012-02-27 | 歴史

保元の乱の首謀者といってもよい藤原頼長が登場

しましたね

藤原氏の全盛期を築いた御堂関白道長と、その長

男で平等院鳳凰堂を建立した頼通から一文字づつ

とって命名された頼長、父・兼実にとっては期待

の息子だったのでしょうね

 

17歳で内大臣、30歳で左大臣と年齢の割にはスピ

ード出世、かなりの美形だったとも言われていま

政治的にも凡庸な人物ではなかったようですが、

杓子定規な性格が仇となり政敵も多かったようで

 

ご禁制の品で商売をし莫大な利益を得ていた平家

ですが、頼長に違法性を突かれてしまいます。

うろたえる清盛と思いきや真向から反論、し

かし頼長の弁舌には敵いませんでしたね

 

ところで

ドラマでは鳥羽院の御前で歌を詠んだ事に対して

佐藤義清にご立腹の崇徳帝

帝をお守りいたします』と言う義清の手を握り

何やら怪しい雰囲気

崇徳帝も男色だったのですね

 

男色といえばやっぱり頼長。

男色といっても子供もしっかり儲けているのです

から、いわゆるバイセクシャルですね。

この当時の男色はホモやゲイとは少しニュアンス

が違うようです

頼長自身の日記にも木曽義仲の父・源義賢との関

係が生々しく載っています

源頼朝も少年のころ後白河と関係があったとも言

われていますし、貴族などの日記にも隠す事なく

実名や官位で載っているところを見ると、当時の

男色は特別なことではなさそうですね。

勿論、藤原や源だけではありません。

清盛の息子・重盛とその重盛の息子・資盛も親子

で後白河と関係があったとも言われているのです

当時の武士は武力だけでは出世が出来なかったの

かも知れません

 

平家が力を持った背景にも…

平清盛の父・忠盛は白河帝の種である清盛を我が

子として育てた為に栄達したと言われていますが、

実は…

忠盛も白河帝と関係が有ったと言われているので

すから

平家隆盛の訳は清盛に王家の血が入っていたから

ではなく、忠盛が白河院と関係を持ったためだと

も…

院政期に台頭した武士ですが、男色に支えられて

いたと言っていいかも知れませんね

 

 

 

 

コメント
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