石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

2008-10-09 00:22:26 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔

最勝寺は岩坂集落の西方山中にある。現在無住だが地元で手厚く管理されているようで、閑静な境内はよく手入れされている。苔の緑が美しい本堂正面の空間に石造宝塔が立っている。07大吉寺跡の宝塔から建長三年銘が発見されるまでは近江在銘最古の石造宝塔として早くから知られた存在で、近江でも屈指の古い在銘遺品である。14相輪の大半を亡失して現高約192cm。元は9尺塔と考えられる。総花崗岩製。基礎は直接地面に据えられているようだが下部の1/3ほどが埋まって下端が確認できない。基礎は大きい亀裂が縦方向に入り都合3つに割れている。側面は四面とも幅の広い輪郭を巻いて格狭間を入れる。左右の束が特に幅広になっている。格狭間内は素面で平らに彫成されており、近江式装飾文様は認められない。格狭間に特長があって、輪郭内の面積に比べて全体に小さく、上部の花頭曲線が水平方向にまっすぐになって肩が下がっていない。花頭中央の幅は狭く、側線はどちらかというとふくよかさに欠け、特に在銘面の向かって左側の側線などはむしろやや角張っているようにさえ見える。格狭間の形状はお世辞にも整美とはいえず古拙というべきであろう。こうした基礎の特長からは、東近江市柏木正寿寺の宝篋印塔など、だいたい13世紀末頃以前、近江でも古手の部類に入るとされる石塔類の基礎に通有する意匠表現を見出しえる。06基礎の下端は地中にあって確認できないが、高さに対して幅が広く、低く安定感のあるものであることは疑いない。田岡香逸氏と池内順一郎氏で報告の計測値に若干の差異があるが、概ね幅約93cm、高さ約49cm。西側の向かって右の束に「大勧進僧…(以下判読不能)」左に「弘安八年(1285年)十月十三日乙酉造立之」と陰刻する。乙酉は十月のやや上の左右に配置している。大勧進、弘安八年は肉眼でも十分確認できる。塔身は円筒形の軸部、匂欄部と思しき段形を持つ首部を一石で彫成している。軸部は四方に大きめの扉型を薄肉彫りする。扉型は長押が一重で鳥居状にならない単純な構造。左右の方立と長押ともに幅広で、扉型に囲まれた長方形の区画内に舟形背光を彫り沈め、蓮華座に座す四方仏を半肉彫りしている。面相、印相ともに風化の進行でハッキリしないが、田岡香逸氏によれば西側から釈迦、北側阿弥陀、東側弥勒、南側薬師の顕教四仏とのことで、各尊の方位は違っている。わずかな痕跡から可憐な面相がうかがえる。また通常の蓮華座と異なり下半に矩形座を設けているとのことであるが下半身を大きめに造作したようにも見え、その辺りは肉眼では確認できない。背光は像容に比べやや小さめである。左右の扉型方立の外側には開いた扉を表現した台形があり、隣り合って連結して見えるため上に下向きの矢印、下に三角形の彫りくぼめがあるようにも見える。11亀腹部の曲面は狭く、匂欄部を表したと思われる太く高い段形最下部、さらに中段、上段と徐々に高さと太さを減じる3段の段形からなる首部に続いていく。塔身高さ約66.5cm。笠は全体に低く、笠裏には薄い3段の段形の斗拱型を刻みだす。笠高さ約48cm、軒幅約75cm。軒口は非常に分厚く、隅に向かって全体に緩く反転する軒反には力がこもっている。隅増しは顕著ではない。軒の厚みがある分屋根の勾配は緩く、四注の屋だるみも軒反にあわせて絶妙な曲線を描く。隅降棟は、通例の断面凸状とせず、断面半円形の突帯とし、露盤下で左右が連結している。頂部には露盤を比較的高めに削りだしている。相輪は伏鉢、下請花、九輪の最下輪を残し九輪2輪以上を欠損している。伏鉢並びに下請花の曲面はスムーズで、くびれ部にも硬さや弱さは感じられない。下請花は単弁。わずかに残る九輪は凹凸をハッキリ刻み込むタイプであることがわかる。全体に剛健な印象で、細部の意匠には古拙さがある。以上まとめとして特長を改めて列記すると、①低く安定感のある基礎、②幅広い輪郭、③輪郭の左右の束が広い、④輪郭内の広さに比して小さめの格狭間、⑤格狭間内に近江式装飾文がない、⑥格狭間花頭曲線中央の幅が広くない、⑦シンプルな扉型と左右に開く扉の表現、⑧円盤状の縁板(框座)を持たない塔身、⑨ほとんど下すぼまり感のない円筒形の塔身軸部、⑩分厚い笠の軒口、⑪薄めの段形による斗拱型、⑫緩いが真反りに近い力のこもった軒反、⑬緩い屋根の勾配、⑭断面凸状の三筋にならず、かまぼこ状の突帯による隅降棟、⑮単弁の相輪下請花、⑯凹凸をハッキリさせた九輪といったところだろうか。13世紀後半の紀年銘とあわせてこうした特長をとらえていくことが肝要ではないかと考える。また、こうした特長が複合的に見る者の視覚に作用し、塔全体として醸し出される雰囲気を構成しているのである。基礎の輪郭・格狭間、塔身の扉型、笠の隅降棟など典型的な石造宝塔としてのマストアイテム的な特長のいくつかは備えつつも、先に紹介した竜王町島八幡神社宝塔(2008年7月15日記事参照)などに見る14世紀初め以降の「定型化」したともいえる石造宝塔とは明らかに違う雰囲気を感じる。細部の特長やそれぞれの特長の違いを詳しく見ていくことに加え、こうした全体の雰囲気をつかみとることも石造美術を理解していくうえで欠かせないのではないかと思う。いずれにせよ最勝寺塔は近江の石造宝塔を考えていくうえで貴重なメルクマルである。なお、境内周辺にはこのほかにもいくつか中世の石造物の残欠が見られる。

参考:田岡香逸 「近江甲賀郡の石造美術」(3)―最勝寺・飯道神社― 『民俗文化』66号

   池内順一郎 「近江の石造遺品」(下) 217~218ページ

   川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」 101ページ

池内順一郎氏いわく、「宝塔が最勝寺塔であれば、多宝塔は廃少菩提寺塔、宝篋印塔は比都佐塔となるであろう。この最勝寺塔を見ないものは、石造遺品を語る資格がないといっても過言ではない。」とのこと。是非はともかく、ここまで言われてはご紹介しないわけにはいかないですね。ただ、お寺には地元自治会長に断りをいってから立ち入る必要があるようで探訪される場合はご注意ください。流石の市指定文化財。相輪の欠損が惜しまれますが、静寂な山寺の苔むした地面に立つ堂々たる佇まいに惹かれ、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい宝塔です。やはり小生も近江で最高の石造宝塔のひとつだと考えます、ハイ。


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1 コメント

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 台風18号の襲来でで9月16日未明岩坂 杣大山... (奥村英太郎)
2013-09-25 23:29:32
 台風18号の襲来でで9月16日未明岩坂 杣大山最勝寺(安楽律院法流)は上方100mからの山崩れ、土石流により倒壊しました 
 水口歴史資料館にレプリカも展示されている弘安8年(1285年)銘のある宝塔の胴部は100m下流で発見されました 世に広く紹介賜った碩学田岡先生 池内先生 川勝先生 また 市文化財担当の 諸先生には申し上げる言葉がありません
 永年にわたり守り 崇めてきた村民は深い悲しみとともに何としても埋まった多数の仏像と散逸した宝塔を救いたいと願っています
 心ある諸兄には一度この惨状を目の当たりにしていただき貴重な文化財の保護に御理解御協力をいただきたく貴覧を拝借し、報告申し上げます
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