石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 吉野郡吉野町山口 薬師寺宝篋印塔

2008-03-12 23:10:24 | 奈良県

奈良県 吉野郡吉野町山口 薬師寺宝篋印塔

山口神社の西、国道と谷筋を挟んだ山裾、集落の最高所にあって眺望はすごぶる良い。薬師寺は田舎の集落によく見られる小さいお堂で、地区の会所のような状態になっている。01_3正面石段を上り、向かって左手、石柵内に宝篋印塔がある。花崗岩製で複弁反花座上に立ち、相輪を欠いて五輪塔の空風輪が載せられている。元は寺の西方の山林中に石塔類が散乱する場所から運ばれたらしい。02_2したがって寄せ集めの可能性が高い。しかし、笠と基礎は風化の程度、石材の質感、サイズ的な釣り合いから一具のもの考えてよいと思われる。川勝政太郎博士によれば、台座と塔身は別モノで、塔身は層塔の初重軸部の転用であるとのことである。何ともいえないが、確かに笠と基礎に比べこの塔身はやや大きい印象で、バランスが良くない。やはり別モノと考えるのが自然かもしれない。あるいは別の宝篋印塔の塔身かもしれない。塔身側面に大きく陰刻した月輪内いっぱいに薬研彫で刻まれた金剛界四仏の種子は、非常に雄渾で力強い。基礎上2段、側面四面とも素面で、背が少々低い点を除くと取り立てて特徴はないが、一側面に四行にわたり「父母師長/往生安楽/建治四年(1278年)/願主□□」の銘文が刻まれているという。四行にわたる文字は認められるが、肉眼では判読できない。03_2一方、笠には珍しい特徴がある。笠下2段は通常だが、笠上は3段を経て4段目の上端が四注状に傾斜をもって頂部平面につながっている。この四注部分隅降棟の辺長はごく短く直線的で、天理市長岳寺五智墓にある宝篋印塔の残欠によく似ている。奈良市須川町の神宮寺宝篋印塔のように若干の屋だるみをもって削りだした露盤につなげていく手法に比べるといささか簡略化した感じがある。05_2二弧素面の隅飾突起は軒から入って直線的にやや外傾して立ち上がる。軒の厚みは割合少ない。別モノとされる台座は風化が激しいが四弁の複弁反花付き、よく見られるタイプのもので、反花の傾斜の緩やかさが古調を示し、少なくとも鎌倉末期は降らないと思われる。建治4年は奈良県の在銘宝篋印塔では4番目に古い。屋蓋四柱形の宝篋印塔に年代的な指標を与えるものとして貴重。重要文化財に指定されている。現高約85cmと元はせいぜい5尺塔程度だろう。この宝篋印塔は先行する輿山塔、額安寺塔、観音院塔の3基に比べるとずいぶんと小さい。中・小形の宝篋印塔基礎で無銘素面の残欠や寄せ集めはいろいろな場所でよく見かける。こうしたサイズのものが13世紀後半段階で数多く造立されていたかどうかはわからないにしても、小さい無銘素面の残欠を一概に室町時代以降のものと片付けてしまうことの危うさを示している。

なお、石柵脇の手水鉢の下にもう一つ別の複弁反花座がある(写真右下)。大きいものではないが、やはり反花の傾斜が緩く、全体に扁平で、反花端が側面端よりかなり内に入り込む。低い側面を二区の長方形の輪郭状に区切って彫りくぼめ、内部に格狭間を入れている。反花座側面を輪郭状に区画して格狭間を入れる手法は桜井市粟殿墓地正平3年塔、天理市苣原の五輪塔台座や京都府加茂町西小墓地五輪塔で見たことがある。これは関東の石塔台座に多いスタイルで大蔵派系統の意匠にも通じる手法。座受部分の一辺に底に貫通する埋納穴と思われる小穴がある。(なかなかおもしろい反花座ですので見落とさないでくださいね。)

参考:佐々木利三 「屋蓋四柱形の石造宝篋印塔について」『史迹と美術』588号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 266ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 514~515ページ