石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

2008-03-03 23:56:53 | 京都府

京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

京都府向日市物集女付近も都市周辺部の宿命とはいえ例に漏れず開発が進み、かつての街道沿いの農村の痕跡すら探すことが難しくなってきている。南側100m足らずのところには物集女城跡があり土塁や堀が残る。01さらに南東約500mには古墳時代後期の前方後円墳として有名な物集女車塚古墳が窮屈そうに団地内の緑地に収まっている。浄土宗西山派紫雲山来迎寺の狭い境内の北に接して広い府道140号線が東西に走る。昔からの集落にある小寺院という原風景は失われつつある。09南面する山門をくぐると正面の本堂、右手の収蔵庫ともに鉄筋コンクリートで収蔵庫の南側、白壁沿いの狭いスペースに両部曼荼羅板碑と宝篋印塔が並んで立っている。宝篋印塔は東側にあって高さ約164cm、総花崗岩製で基礎から相輪まで完存している。基礎は割合低く、側面は3面に輪郭を巻いて内に格狭間を配する。背面は格狭間がなく数人の願主名と貞和4年(1348年)2月の紀年銘があるというがはっきり確認できなかった。貞和4年は北朝年号で南朝年号では正平3年にあたる。格狭間内は素面。基礎上は反花式で複弁の抑揚のあるタイプ、両隅弁間に小花を挟んだ中央弁1葉、都合一辺3弁で弁先が側面からかなり入り込んでいる。塔身受座は比較的高く削り出している。塔身は金剛界四仏の種子を陰刻月輪内に薬研彫する。タッチは端麗ながら力強さに欠け温和にまとまった感じである。笠は上6段下2段の通有のもので、軒が薄い印象。二弧輪郭付の隅飾は軒から入って直線的に外傾する。カプスの位置をやや低く隅飾基底部分を少し幅広めにしている。相輪は九輪部6輪目と7輪目の間で折れているのをうまく接いである。伏鉢下請花は複弁、九輪の凹凸ははっきりしたタイプで上請花は風化が激しいが単弁のようである。宝珠はスムーズな曲線を見せるが重心がやや上にあって上請花との間のくびれが大きい。薮田嘉一郎氏は「鎌倉前期に創始され、後期に完成された石造宝篋印塔の様式はこの時代に至って円熟し、やがて頽れて行くのであるが、本塔はやや古様を保ち、最も整備温和の麗姿を見せる。10蓋し鎌倉様式掉尾を飾る一名品であろう。」と評されている。一方、両部曼荼羅板碑は高さ156cm、幅91cm、厚さ33cm、やや不整形長方形で良質な凝灰岩の正面を平らに整形し、上端は破損しながら額部状に突出させているのが判然としているが左右の破損面も同様に突出して中央平面部を囲むようになっていた可能性も否定できない。そうするとやはり川勝博士が推定されるように古墳の石棺を2次利用したものなのかもしれない。下端は楕円形素弁を二重鱗状に配している。正面の平らな面には上下に大きく2つ平らな丸いレリーフを設けている。上レリーフは胎蔵界の中台八葉院を表す八葉の蓮華で、中房にアーク(大日如来)を配し、上から時計周りにア(宝幢)、アー(開敷華王)、アン(弥陀)、アク(天鼓雷音)の4仏、右上にアン(普賢)、右下にア(文殊)、左下にボ(観音)、左上にユ(弥勒)の4菩薩の種子をそれぞれ蓮弁内に大きく薬研彫する。中央アークが大きく、4菩薩より4仏の種子がやや大きい。下のレリーフは陽刻円相内を細い2条の陰刻線で縦横に区切り、中央にバン(大日)、上にキリーク(弥陀)、右にアク(不空成就)、下にウーン(阿閦)、左にタラーク(宝生)の5仏の種子をそれぞれ陰刻月輪内に薬研彫している。金剛界曼荼羅成身会を表す。中台八葉院で胎蔵界を、成身会で金剛界の両部曼荼羅をシンボライズする。胎蔵界では西方弥陀のアンが下に、金剛界ではキリークが上にくるので両界共通の西方の弥陀が全体の中央に寄るようになっている。石棺を利用し両部曼荼羅を刻みだした塔婆ないし石仏の一種で、いわゆる板碑として明確にカテゴライズできるものではないのかもしれない。石造の両部曼荼羅は関東の板碑にもちょくちょく見られるようだが、このあたりでは非常に珍しい。力強い種子の書体、威風堂々として野趣溢れる作風は見るものを圧倒する。造立年代は不詳とするほかないが、川勝博士は南北朝時代前期のものと推定されている。寺蔵の平安後期の薬師、阿弥陀の木像とともに、もともと付近にあった薬王山光勝寺(廃寺)の旧物ということである。

参考:川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』 132~133ページ

   薮田嘉一郎 補考付『宝篋印塔の起源 続五輪塔の起源』 裏表紙及び163ページ

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 175ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 272ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 190~191ページ