石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 愛知郡愛荘町松尾寺 大行社石造露盤ほか

2008-02-05 00:28:27 | 宝篋印塔

滋賀県 愛知郡愛荘町松尾寺 大行社石造露盤ほか

大行社は、湖東三山のひとつ松尾寺こと天台宗金剛輪寺の南門の守護神として勧請されたとされ、山王21社のひとつで祭神は高御産巣日命あるいは氏神大行事大権現という。02 大行事権現がどういう神格を意味するか不明。本地は毘沙門天のようである。社殿は重要文化財で元金剛輪寺本堂北の三所権現社を明治時代に移建したもので蟇股に文安四年の銘があるという。標高468m余の秦川山西麓にある金剛輪寺へは行くには国道307号を松尾寺の交差点を東に折れ、名神高速道路の高架をくぐっていく道が一般的で、松尾寺の交差点から1kmほど南から上蚊野から松尾寺の集落を経て行くルートは門前駐車場の奥、ちょうど裏手に当たる。自動車で行くには道幅が狭く通る人も稀なようだがこちらが南門側に当たる。教専寺横の鳥居をくぐり手水鉢の脇、石垣上の社殿向かって右手の石積の麓、自然石の上に寄せ集めの石燈籠が載っている。石造物の残欠を適当に組み合わせたもので、宝篋印塔の基礎に六角形の火袋を積み笠の代わりに珍しい石造露盤をかぶせ、頂には五輪塔の空風輪を置いてある。露盤は宝形造の建物の屋根頂部にある部材で、宝珠や相輪とそれを受ける平らな方形の伏盤からなるのが一般的だが伏盤部分のみでも露盤と呼ぶ。03 金属製や瓦製が多く、石造のものは希少で近江でも先に紹介した旧蒲生町称名寺の例(2007年1月21日記事参照)を含め2、3の例が知られているに過ぎない。有名なものに京都高雄の神護寺文覚上人廟のものや岩手平泉の毛越寺観自在王院のものなどがあるが、昭和47年時点の田岡香逸氏の知見では全国でも19例に過ぎず、その後の新資料について詳しくないが30例あるかどうかといったところではないかと思われる。さてこの石造露盤であるが、幅約55cm、高さ約20cmの花崗岩製、底面は大きく彫り窪め、側面四方は二区に分割した壇上積式で区画内に格狭間を配する。13 側面の上下の葛と地覆部分は突帯状にせり出し、区画内、格狭間の彫りは割合深くしてある。側面葛部分と区別して屋根部分の軒先が立ち上がり、傾斜はややむくんで四柱の隅棟の稜線はそれ程明確でない。頂部には円形の受座を刻みだし、空風輪が載っているため確認できないが田岡氏によれば中央に枘穴があるという。この枘穴が底面の窪みに貫通するか否かも確認できない。いずれにせよ枘穴に差込式に宝珠が載る構造であろう。川勝政太郎博士は肩の下がった格狭間の形状から南北朝とされ、田岡香逸氏は側面高の低さや川桁御河辺神社石燈籠基礎との構造形式の共通性から鎌倉後期後半とされる。一番下の宝篋印塔の基礎は上反花式、埋もれて確認できない背面東側を除く各側面は壇上積式で格狭間を配し、西側と北側に左右対称の三茎蓮花のレリーフがある。彫りが浅い格狭間は肩が下がらず、ふくよかな側線が美しいカーブを描いて短い脚に続く。抑揚感のある上反花の彫成も見事で、元5尺塔と思われやや規模が小さいが鎌倉末期を降らないものである。火袋はさほど古いものではないだろう。35年以上前の田岡氏の報告時と変わらず、現在も灯篭として使用されているらしく火袋以下は菜種油と煤で汚れている。石造露盤は極めて珍しいものなので灯火の熱による劣化や地震などによる倒壊が少々心配である。

 

参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』172ページ

   田岡香逸 「続々近江湖東の石造美術」(前)・(後) 『民俗文化』112号及び113号

   その他現地の案内看板や社歴碑も参考にしました。