滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その1)
慶雲山勝楽寺は婆沙羅で知られる武将佐々木高氏(京極導誉)の菩提寺で、臨済宗建仁寺派。寺蔵の有名な導誉の肖像は京都国立博物館に寄託される。背後の山塊は導誉が築かせその後多賀氏などが拠った勝楽寺城の跡で尾根筋などに遺構が残る。現在の寺の本堂は江戸時代のものだが、山門は城跡から天明年間に移建された城唯一の木造遺構と伝えられる。建武4年(1337年)ごろ柏原から甲良庄に根拠を移した導誉は、康永4年(1345年)に甲良庄地頭職を得ている。以後、応安6年(1373年)78歳で亡くなるまで当地を本拠としたという。勝楽寺は、導誉ないし息子の京極高秀が暦応4年(1341年)、京都東福寺5世山叟慧雲の法嗣であった雲海正覚(正意?)和尚を招いて開山とし建立された。雲海和尚は間もなく死去し、入寂の際の遺偈の墨跡が残る。その後も京極氏の菩提寺として隆盛を誇ったが戦乱を経て次第に衰退し、時々の領主から断続的に保護を受け続け今日に至っている。本堂背後の山裾に安山岩製(硬質の砂岩の可能性も残る)の瀟洒な宝篋印塔がある。京極氏の重臣、新平兵衛尉の墓というが不詳。平らな切石を敷いて基壇とし基礎は上2段式で側面は各面とも壇上積式で内に格狭間を配し、格狭間内三方に三茎蓮花、山側の背面のみ大きい開蓮花のレリーフを格狭間内いっぱいに飾っている。格狭間は側線や花頭の曲線に硬さがあり、大きい開蓮花は下底が平らで中房が水平に細長く花弁が左右に行くにしたがってS字状に変形する。多分に図案化が進行したものである。塔身は月輪内に蓮華座を設けないで金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は月輪のやや上方に偏って深く刻まれ、曲線を強調した独特のタッチで達筆ではあるが雄渾や端麗といった形容詞にふさわしいものとはいえない。笠は上6段下2段で二弧輪郭付の隅飾は軒から入って立ち上がり、直線的に外傾する。相輪も欠損なく、伏鉢の曲線は硬く下請花は複弁、上請花は小花付単弁。九輪部は線刻で表現し、逓減がやや大きい。宝珠の曲線は滑らかだが重心が少し高く上請花とのくびれが大きい。石材のせいもあってか全体に表面の風化が少なく保存状態は良好。意匠の細部は退化・形式化が進んでいるが表面処理や彫り自体は丁寧に仕上げられている。造立時期は室町時代、15世紀半ばないし後半ごろまで降ると思われる。また、本堂左手の墓地に導誉の墓と伝えられる宝篋印塔がある。花崗岩製で塔身は失われ、笠と相輪は原型をとどめないほど破損しているが、なかなか大きいもので田岡香逸氏は8尺塔と推定されている。基礎は上2段式で側面は輪郭格狭間、三茎蓮花のレリーフを正面にのみ入れている。こうした破損は風化や倒壊によるものとは考えられず、火中したか故意に打ち欠かれたかいずれかであろう。破損が著しく造立年代の推定は困難だが、導誉の没年である応安6年よりは遡りそうである。1305年ごろと推定されている田岡氏の説に従っておく。導誉塔の左には塔身が五輪塔の水輪に入れ替わった宝篋印塔がある。傍らに「赤田栄公墓」と刻まれた自然石の碑が立つ。上端近くまで埋まった切石基壇の上に据えられ、基礎は側面壇上積式で上2段。各側面に格狭間・三茎蓮花のレリーフを飾る。格狭間は上花頭中央が狭く、やや肩が下がり、脚部が極めて短い。彫が非常に浅いのが特長。笠は上6段下2段で、軒は薄く、軒からかなり入って二弧輪郭付の隅飾が外傾しながら立ち上がる。隅飾輪郭内は素面。相輪は上請花と宝珠を欠損する。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は複弁、九輪はやや逓減が目立つ。田岡氏は1315年ごろと推定されているが、もう少し新しく南北朝前半ごろものではないだろうか。赤田栄公がどういう人物かは不詳。(その2に続く)
写真上左:本堂裏宝篋印塔全景、上右:本堂裏宝篋印塔基礎の開蓮花、
下左:導誉塔、下右:赤田塔
なお、導誉の墓とされる宝篋印塔は柏原清滝寺徳源院の京極家墓地(応安6年銘)にもあります。
※ 参考図書はその2にまとめて記載します。
【追記】
今更ながら少し記事を補足させていただきます。記事にある「赤田栄公」というのは赤田栄という人物で、赤田左衛門尉とも。赤田氏は嵯峨源氏。赤田というのは越後の地名で、鎌倉時代の初め頃、幕府の御家人として渡辺綱の子孫が彼の地の地頭に任じられ名乗るようになったとか。その後、近江犬上郡に移住、佐々木源氏に属したようですね。代々名前が一字なのは遠祖に当る源氏の伝統を継ぐものでしょうね、渡辺党の祖であるかの頼光四天王の一人渡辺綱も一文字名です。赤田栄は佐々木導誉とほぼ同時代の人で観応の擾乱で戦死したと伝えられているようです。しかし、赤田氏はその後も拠点を移しながら室町・戦国時代を生き抜いた近江の名族だということです、ハイ。
赤田栄と京極導誉との関係は不勉強で存じ上げませんが、導誉の墓と伝えられる宝篋印塔のそばに寄り添うように墓塔とされる石塔がまつられていることから、導誉の旗下に属したのでしょうか、あるいは徳源院京極家墓所に北畠具行の供養塔とされる石塔があるように、敵対したものの導誉も一目置くような花も実もある勇士だったのでしょうか、そのあたりは機会があれば今後調べたいと思います。
なお、赤田栄の墓とされる寄集め塔ですが、無銘なので彼の墓塔と断定することはできません。塔身にある五輪塔の水輪は室町時代に降る別物でしょうが、宝篋印塔の基礎と笠は恐らく一具のもので、その形状から推定される造立時期は、観応二年とされる赤田栄の没年と齟齬のない頃と思われます。(2011年1月追記)