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石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 栗東市御園 出庭神社宝塔

2007-03-12 23:40:12 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市御園 出庭神社宝塔

透き通った流れの水路が隔てる出庭神社の境内東端、拝殿の軒先にある。花崗岩製。相輪を欠くが高さ3mに近く、元は恐らく12尺ないし12尺半はあろうかと19 いう巨塔で、惜しむらくは、火災に遭ったらしく、破損がいちじるしい。ところどころ熱によって変色し、大小のヒビが入って脆くなり、剥落部分が多い。西側が特に激しく傷んでいる。ステンレスプレートを笠状にしつらえて首部に載せてある。笠と斗拱部は数メートル離れた場所に置かれ五輪塔の空風輪が一緒にしてある。相輪の残欠らしいもの見当たらないので、早くに失われこの空風輪が相輪の代わりに笠の上に載せてあったのかもしれない。元は近くの大乗寺にあったものを移建したという。切石を方形に組んだ基壇を設けているが、下半部分は土中に埋まっていて観察できない。基礎は低く、側面には輪郭を巻き、幅広な格狭間を輪郭内に大きく表現している。破損が激しく観察できない西側を除き格狭間内は素面で、花頭部の中央曲線は幅が広く全体的に整っているが側線の曲線は少々固く、脚部は短く直線的に立ち上がる。脚間は比較的狭い。特筆すべきは基礎上面に低い複弁反花座を円形に刻みだし塔身受座を彫成している点で、例が少ない注目す32_1 べき意匠である。大きく破損した西側に基礎と塔身の隙間が大きく開いた箇所があり、塔身受の下に空間があるのが観察でき、基礎に内刳りを施して納入スペースとしたことが判る。塔身は一石からなり、軸部、匂欄部、首部の3部に大別され、円盤状の框は見られない。やや下すぼまりの円筒形の軸部は、下端に地覆に当たる一段を平らな帯状に陽刻し、その上に扉型を陽刻する。扉中央にやや薄い陽刻帯で扉を左右に分けて表現する。扉型の上辺にも突帯を鉢巻状に廻らせ饅頭型の亀腹に相当する曲面に続く。こうした平らな突帯にもそれぞれ厚薄があって重なり合い一見鳥居型のように見える。亀腹曲面が塔身側面全体に占める割合は小さく、その位置も塔身全体の高さにして2/3程のところの割合低いところにあって太い匂欄部分にすぐつながっていく。匂欄部分は相対的に大きく、地覆、平桁、架木などを平らな突帯状に陽刻し、手の込んだ意匠となっている。首部は無地で短く比較的太い。フォルムの違いはあるが塔身のディテールに高野の松源院塔に通ずるものがある。笠は頂部に露盤を高めに削り出し、相輪を受ける枘穴を設けている。露盤側面01_2 は無地。各四注には降棟を付し、その二重突帯は露盤下でつながっている。軒先は4箇所とも欠損している。軒先の厚みはさほど顕著ではないが四隅先端で力強く反っていたことが四注棟の傾斜や軒先の破損面から推定できる。笠全体として高さがあってボリューム感がある。笠裏は地面下にあって観察できない。斗拱部は一部が残るのみで、平面方形で2段に持ち送るタイプのようである。笠との接合面は平らで枘などはみられない。笠同様下部は地面下で観察できない。意匠や彫技は出色といえるものの、基礎上の蓮弁飾付の受座以外は、オーソドクスな定型スタイルで、笠や格狭間の形状などから14世紀初め頃のものと考えたいがいかがであろうか。数多い近江の宝塔中でも指折りの優品で、かえすがえすも破損が惜しまれる。

参考:川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 86ページ


滋賀県 蒲生郡竜王町岩井 安楽寺宝塔

2007-02-17 02:34:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町岩井 安楽寺宝塔

 

本堂右手の一角、江戸時代の納経塔らしき大きい石塔の傍らにちょこんと置いてある。基壇は見当たらないが、基礎から相輪まで完存している。高さ約130cm、花崗岩製。基礎は高く立方体に近い。四06_2方輪郭を巻き、退化してチューリップのような線刻の格狭間を入れる。格狭間内は素面。塔身は全体に球形で、上から1/4ほどのところに円盤状の框を廻らせ首部と軸部を分けているが首部は垂直に立ち上がるものではなく軸部の球形の曲線が框部を隔ててそのまま続いている。首部は無地だが軸部の四方に扉型を浅く線刻している。扉型の表現は形式的である。笠も全体に高さが勝って安定感に欠け、軒下2段にやや厚めの垂木型を削り出す。軒は薄く隅に向かって反っているが力強さがない。四注には断面凸形で降棟が表現され露盤下を経由して隣どうしがつながっているのは鎌倉時代からの伝統的な宝塔の笠の特徴をいちおう踏襲しているものの表現に力強さがない。笠の頂きは垂直気味に立ち上げて露盤を表現する。相輪は伏鉢が高く、筒形の上辺のみ丸く彫成し、その上の複弁請花とのくびれも浅いものとなっている。下請花と相輪の境目は太くしまりがない。九輪は下が太く上が細く凹凸は浅く線刻に近い。上の請花は間弁付単弁で九輪との境目が太くしまりがないのは下と同様である。最上部の宝珠は側面の直線が目立ち、先端の尖りが大きく発達する兆しを見せる。番傘状相輪の一歩手前といった感じである。全体として塔身と相輪が大きめで笠や基礎が小さく、安定感や均衡のとれた風格といったものが全く感じられないが、一種コミカルな風情があり、これはこれで愛すべき作品である。紛れもない宝塔だが、塔身が球形になっているせいか何となく五輪塔の風情が漂う。また、笠下の2段は垂木型というよりは宝篋印塔の笠下の趣で、石工にとっては作り慣れた五輪塔や宝篋印塔の製作手法を基本に少し工夫したという感じも受ける。紀年銘は確認できないが、背の高い基礎、退化した格狭間や相輪の形状などから室町時代も後半15世紀末から16世紀前半代のものと推定される。こういう宝塔もなかなか面白い味わいがある。

 

 

 

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 206~207ページ


滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 若一神社宝塔

2007-02-01 00:59:33 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 若一神社宝塔

国道307号を東に折れ、名神高速道路の下をくぐり正楽寺の集落から、佐々木(京極)道誉の菩提寺と伝えられる古刹勝楽寺に通じる道路の北側に若一神社がある。民家の軒先のような参道を進み、大きくない境内に入るとすぐ宝塔が目に入る。

06_1 周囲より少し高く整地し二重の切石基壇の上に立つ基礎から相輪まで全て揃った見事な宝塔である。壇上積式の基礎はやや高く、北側背面を除く三方に開蓮華入り格狭間を飾る。塔身軸部には三方に扉型を陰刻、北側のみ素面とし、首部との間に框座を廻らせる。笠下に二重の垂木型を表現し、軒は厚く隅で力強く反る。隅棟は稚児棟を彫り出し、若干の照りむくりがある。頂部はほぼ垂直に立ち上げ側面無地の露盤を表す。相輪も遺存状況、彫技ともに優れ、伏鉢はやや背が高く、凹凸をはっきり刻み出す九輪を挟む請花は下複弁、上単弁。最上部の宝珠は完好な曲線を見せる。花崗岩製。目立った欠損もなく、風化も少ないため、全体にすっきりとしてシャープな印象がある。高さ約2.2m(※2)。

面白いのは塔身軸部の扉型のうち、東側の一面のみ左右に平行四辺形が付き観音開きになった表現で、あまり例を見ない。基礎格狭間は大きく側辺の曲線や花頭曲線が伸びやかで、格狭間内の彫りがやや浅く平板で、鎌倉様式をよく示している。造立年代について、佐野知三郎氏が「當先考沙弥願念十三/年忌奉造立之/延慶四年(1311年)辛亥二月廿八日/願主清原□□」の銘文を発表されている(※3)。ただし、銘文の場所の記載がなく、恐らく基礎か塔身軸部の北側素面部分にあると思われるが、肉眼では確認できない。大正年間に勝楽寺から移建されたという。

なお、地名の元になったと思われる勝楽寺には南北朝期~室町初期の優れた重制無縫塔三基をはじめ、見るべき石造美術が多く、裏山は道誉が築いた勝楽寺城跡である。あわせて訪ねられることをおすすめしたい。

 参考

 ※1 滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 91ページ

    同書には室町時代製作で総高5mとあるが、2.5mの誤りと思われる。

 ※2 川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 176ページ

 ※3 佐野知三郎 「近江の石造美術(二)」『史迹と美術』590号

 


滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

2007-01-27 09:59:27 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市(旧栗太郡栗東町)高野 松源院宝塔

栗東は、宝塔が多い近江にあってもとりわけ優れた宝塔が多く見られる地域である。高野33 は、鋳物師の活躍した古い集落だが、宅地化が進んで、のどかな田園景観の面影は次第に失われようとしている。目指す宝塔は高野神社参道を境内すぐ手前で左に折れ狭い里道の角を曲がると突如として現れる。松源院は高野神社境内すぐ西側に隣接して元神社の別当寺というが、今では住宅に囲まれた小さい境内に小堂一宇と鐘楼があるに過ぎず、無住のようである。宝塔の手前に案内看板が設置され、市指定文化財の木造毘沙門天立像と石造阿弥陀如来坐像(室町)の説明があるがなぜかこの宝塔には一切言及されていない。

花崗岩製の見上げるような巨塔で、相輪を失い、笠の上に層塔の塔身と宝篋印塔の笠を載せている。復元すれば3mは優に超すものであったと思われ、現状で笠上までの高さ217㎝。地面に直接据えた基礎は低く側面は4面とも素面で、四石を“田”字に組み合わせている。ただ割目部に作為を感じないので当初からのものではない可能性も残る。基礎を四石分割とするものはいずれも巨塔で、守山市懸所宝塔、愛荘町金剛輪寺宝塔に例がある。塔身は高く、軸部は円筒形で、下端に地覆に当たる部分を廻らせ、四方に脚が長く大きい鳥居型を陽刻する。この鳥居型の上端から曲線を持たせ亀腹としているが、この曲線部分が塔身全体に占める割合は小さい。軸部は縦に2つに割れているが、これは当初から意図されたもので、背面側の首部との境に逆三角形の破壊穴が穿たれており、内部に大きい空洞を認めることができることから、軸部に03_3 内抉空間があったことがわかる。首部は軸部と別石で、二分割された軸部を挟み込んで乖離するのを防ぎ支える役割を持っている。首部には匂欄を大きく表し、地覆、平桁、架木などを陽刻した手の込んだ意匠である。純粋な首部は無地でやや細い。笠裏は垂木型を表現せず、また別石で斗拱型を挟むこともなく、荒たたきのままとし、首部を円形の枘穴で受けている。笠は全体に扁平で大きく、四注棟の勾配は緩やかでやや直線的。四注には降棟型を削り出している。軒口はそれ程厚い感じは受けず、隅近くでやや反る。笠頂部は降棟から連続した水平の繰り出しがあるのは通例どおりだが、その上の露盤は表現されていない。笠の四隅の内1箇所は破損している。

縦長のスマートな塔身と、扁平で大ぶりな笠が特徴で、手の込んだ匂欄、首部・軸部別石であるのも面白い。屋根の軒の形状や、いくつかの部材を組み合わせた構造が特筆される。銘文は確認できないが、低い基礎、扁平な笠、背の高い塔身はいずれも古い特徴を示し、ユニークな意匠が随所にみられることから、構造形式が定型化する直前の時期が想定でき、小生は鎌倉中期後半ごろの造立と推定したい。ただし川勝博士は鎌倉後期でも古い遺品とされている。

なお、相輪に代えて載せてある層塔の塔身は、舟形背光形に彫りくぼめた中に蓮華座に座す半肉彫で四仏をしっかりと表現しており、立派なものである。その上の宝篋印塔の笠も小さいものではない。いずれも鎌倉後期ごろのものと推定される。

なお、高野神社の社殿玉垣内右手には重要美術品指定の鎌倉時代末~南北朝初期ごろの石燈籠があるので、あわせてご覧になることをおすすめしたい。

参考 川勝政太郎『歴史と文化 近江』85~86ページ


滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔

2007-01-24 23:43:09 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔

近江で2基しかないとされる石造多宝塔のうち、旧甲西町菩提寺の廃・少菩提寺跡の普会塔(少菩提寺多宝塔)は重要文化財指定、近江の石造塔婆類では高島市拝戸水尾神社層塔と並ぶ最古の仁治2年(1241年)の造立銘があり、しばしば諸書に紹介されているのに対し、野洲川の対岸にある長寿寺のものはあまり詳しく紹介されていない。

長寿寺多宝塔は、本堂(国宝)への参道右手の薄暗い林の中に凛然と勇姿を現す。角ばった石材を一辺あたり5個前後並べた方形基壇を二段に重ね、そのDscf3420中央に基礎を据える。基礎の手前に石造の香炉か水船のようなものが置かれているが、これは当初からのものではないだろう。台形のやや不整形な基礎は低く大きい。基礎上面には方形の一段を薄めに繰り出している。その上の塔身は方柱状で四隅に面取り加工を施す。幅が狭く高さが勝る。その上は裳階にあたる下層笠で平面方形、下面素面で軒は厚く先端で反り上がるが強い感じはしない。軒棟を短くして上面に広めの平面を整形し、その中央から低い円筒状に饅頭型を受ける部分を立ち上げる。饅頭型部は平面円形で側面はやや直線的に立ち上がり途中から曲線を描くが崩れ気味である。饅頭型と上層笠の間には別石の斗拱部分を挿み込む。斗拱部は他の各部に比してやや大き過ぎの印象を受ける。斗拱下部は方形平面いっぱいに低く円筒形の首部を形成し、饅頭型の上部でこれを受ける。首部に続く斗拱本体は四辺を斜に切り、そこから連続して垂直に立ち上がる平面方形とし、上層笠を受けている(複雑な形状を言葉で説明するのは難しいので写真ご参照のこと)。上層笠も軒は厚く先端でやや反る。さらに上にもう一段別石の笠を載せ錣葺屋根を表している。上層笠頂部には露盤を薄く彫成し、さらに相輪伏鉢状のものを繰り出しているようであるがはっきり確認できない。その上に相輪に代わり宝珠を載せる。この宝珠部は伏鉢と宝珠をくっつけたような形状で、あまり例をみないものである。宝珠伏鉢部は笠頂部の伏鉢部分よりも径が大きく、どことなく不自然な感じがあり、後補の疑いがある。木造多宝塔で相輪の代わりに宝珠とした例は知らない。ただし単層の石造宝塔では若干例がある。長寿寺塔は、塔身の幅が狭く斗拱部が大き過ぎるためか”頭でっかち”で安定感に欠け、宝珠も何か不自然で全体的に各部のバランスが悪く、まとまりのない印象が強い。川勝博士いわく「寄せ集めのように見える」(※1)所以である。安定感があってスッキリまとまった少菩提寺塔に比べるとデザイン的には数段劣る。また、少菩提寺塔に比べ小さいようにいわれるが(※2)、相輪がない分高さは低いが、基礎幅や下層笠の軒幅などはむしろ長寿寺塔が大きく、規模の点では少菩提寺塔に勝るとも劣らない巨塔である。花崗岩製、高さ約364cm、基礎の幅約170余cm、下層笠の幅約136cm(※3)。湖南市指定文化財。

少菩提寺塔との共通点は①ほぼ同規模である、②石材が同じ赤茶っぽい花崗岩、③格狭間などの表面装飾がない、④ノミ跡が生々しい表面の様子、⑤別石斗拱部を持つ、⑥上層笠が二重(錣葺)である、⑦基礎上面に方形の一段を繰り出している。相違点としては、①低い箱型に整形した少菩提寺塔基礎に比して長寿寺塔の基礎は不整形の台形である、②少菩提寺塔は基礎上一段と塔身の間に平たい切石を挟み、外見上二段とし塔身下に空間を設ける構造だが長寿寺 塔にはない、③長寿寺塔の塔身は面取が施されるが少菩提寺塔にはない、④長寿寺塔は首部が斗拱部と同石とし、少菩提寺塔は饅頭型部と同石、⑤斗拱部が長寿寺塔は斜面付一段で少菩提寺塔は二段、⑥少菩提寺塔は露盤が高く、長寿寺塔では露盤部を薄くDscf3428して伏鉢を同石で立ち上げる、⑦少菩提寺塔は相輪を有するが07、長寿寺塔は相輪の代わりに宝珠を載せる。⑧少菩提寺塔は紀年(仁治2年)を含む造立銘を刻むが長寿寺塔には銘が見出せない。このほか各部の縦横比など細かい相違はこの際述べない。

無銘の長寿寺塔の造立年は不明とするしかないが少菩提寺塔を機軸に考えるほかない。この“不細工さ”を退化とみるか発展途上とみるかで判断は分かれるだろう。いずれにせよ鎌倉後期を降ることはないと思われるが、小生は面取り塔身の古調を評価し、発展途上と解釈する。長寿寺塔がやや古く、少菩提寺塔でデザインの完成を見ると考えたいがいかがであろうか。博学諸彦のご批正をお願いしたい。

写真上、左:長寿寺多宝塔…うーんちょっと不細工かな…

右:少菩提寺多宝塔(高さ454cm)…これは文句なく美しいでしょ…

参考

※1 川勝政太郎『歴史と文化 近江』 87ページ

※2 田岡香逸『近江の石造美術』6 19ページ

※3 池内順一郎『近江の石造遺品』(下) 312ページ

最古銘の少菩提寺塔より古いかもしれないといってイコール近江最古の石塔ということではないので勘違いしないで欲しい。仁治2年よりも古い可能性がある無銘の石塔は、石塔寺三重層塔を筆頭に県内にはまだいくつかあり、石仏や石碑にはさらに古い紀年銘をもつものがある。


滋賀県 東近江市市辺町 三所神社石燈籠及び大蓮寺宝篋印塔、三尊石仏

2007-01-16 23:04:48 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市市辺町 三所神社石燈籠及び大蓮寺宝篋印塔、三尊石仏

06 市辺町集落の中央に三所神社があって、本殿前の玉垣の中に建武4年(1337年)銘を持つ優れた石燈籠がある。高さ203cm、円形の中台は単弁2段葺の複雑な円形の蓮台式、あとは各部平面八角型で、基礎各面に格狭間と開蓮華で飾り、基礎上端は一段の繰り出しを経て複弁反花、竿は上中下とも連珠文、火袋にはひとつおきに四天王を半肉彫りする。竿の中節以下に「右志者為悲母第三年追善、□石女造立所建武四年丁丑12月13日敬白」の銘があるというが(※1)肉眼では確認できない。笠の蕨手、請花宝珠も欠損ない優品である。花崗岩製。

 神社と隣り合うように大蓮寺がある。現在は浄土宗。山門を入って境内の、向かって右、山車か何かの保管庫のような場所の軒下に立派な花崗岩製の宝篋印塔が立っている。抑揚感のある隅弁式反花座24 の上の基礎は壇上積式で、束の表現がなく格狭間を持たない。こうした意匠はあたかも未成品か手抜きのようである。銘文は確認できない。基礎上は2段式。塔身には月輪を廻らせずに金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の彫りは浅く、文字も小さめで力強さに欠けている。笠は上6段、下2段で、隅飾は軒と区別して直線的に外反し、薄く2弧の輪郭を巻く。茨の位置は低く、輪郭内は素面。相輪も完備しており、伏鉢は半球形で複弁請花が上に続き、九輪は凹凸がはっきりするタイプで、その上に単弁請花、宝珠は重心が中央にあっておおむね完好な曲線を描く。各部完備で総高230㎝(※2)と大きい。全体的バランスがとれた優れた宝篋印塔だが、細かい意匠に手抜きではと思えるような部分があって、退化傾向と認められる。隅飾の特徴や反花座を持つことなどから南北朝期後半から室町初期(※2)の造立と推定される。すぐ隣に接して鎌倉末期の三尊石仏がある。高さ185cm、平べったい自然石の広い面を方形に彫りくぼめ、蓮華座に立つ如来半肉20彫像を三体を並べ、右に「元亨辛酉元年(1321年)4月月日造立了」の紀年銘を刻むほか、下方に「為生阿弥陀仏現在也/為西念房第三年也/為字六母三十三年也」の銘がある。生阿が自身の逆修と西念房という師匠か縁者と思われる僧の三回忌、そして母親の三十三回忌の供養の為に造立したことがわかる。(※3)このほか付近に宝篋印塔や宝塔の残欠が何点か置かれている。ざっと見ても、宝篋印塔の笠が6点、基礎が6点、どれも花崗岩製、ほぼ同じサイズ、元は6尺~7尺塔と推定され、基礎は上2段の2点04_2を除き基礎上を反花とし、壇上積式のもので、四面格狭間を設け、開花蓮や三茎蓮を持つ。笠はどれも上6段、下2段で、隅飾は2弧輪郭で輪郭内は素面が多く、1点は蓮華座と月輪を浮き彫りにして種子を入れている。また、宝塔の笠と基礎が1点ずつある。宝塔は笠下に3段の垂木を刻みだし、露盤と四注の降棟を表現し、基礎は四面輪郭を巻き、3面に開蓮華入格狭間を飾り、1面は輪郭内をやや深く彫りこんで二仏の坐像を半肉彫している。二尊とも肉髻が確認できるので法華経見塔品に説く多宝・釈迦かもしれない。宝塔基礎にこうした表現があるのは多くない。この宝塔の笠と基礎は1具のものかもしれない。これらの残欠は14世紀初めから後半の時期のものと思われ、何故かどれも相輪と塔身が見られない。注意すべきは、これらの基礎束石に複数の刻銘が見られることで、これらは拓本をとれば判読できるはずで、造立目的や年代形式を考えるうえで貴重な資料となるだろう。さらに同じサイズの素面の立方体の部材が1点あり、五輪塔の地輪と考えられる。これらの残欠は付近の田から掘り出されたもの(※4)という。

他にも境内には多数の小五輪塔や箱仏がある。

また、同じ集落内の薬師堂に貞和2年(1346年)銘のよく似た三尊石仏があるので、あわせて見学されることをお勧めする。

 

 

 

参考

 

※1 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』107ページ

※2 滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』120ページ

※3 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』162ページ

※4 瀬川欣一『近江石の文化財』78ページ

 

 

 

 

 

 

その後、佐野知三郎氏が『史迹と美術』591号に、大蓮寺の宝篋印塔基礎に正和5年(1316年)並びに正慶元年(1336年)の紀年銘を含む銘文があることを報じておられることがわかったが、上記残欠の内いずれかであろう。なお、『八日市市史』は、もう1基上記宝篋印塔の近くに総高290cmの宝篋印塔があると記述するが現地に見当たらない。

(いったいどこへいったんでしょうか?)