滋賀県 東近江市五個荘日吉町 山の脇(廃天王社跡)宝塔
旧五個荘町の北端、下日吉(現在は五個荘日吉町)の西方、民家の横の細い道を裏山の方に30mばかり山林を入っていった場所に立派な石造宝塔がある。 小字は山の脇というらしい。山裾の緩斜面の平坦地に直径10mほどの湿地があり、その中央に自然石の石組を敷いた径2mほどの島状高まりがあり、宝塔はそこに立っている。土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。繖山の山塊の北端近く東側の山裾にあたる。元は現在地より10mほど北側にあったらしく移動に際してかどうかは不詳だが塔下を発掘したが何も検出されなかったという。当時滋賀県教委の文化財担当であった若き日の水野正好奈良大学名誉教授が実測されたとのことなので1960年代のことだろう。付近は天王社という小祠の跡地らしい。花崗岩製で、相輪先端の請花と宝珠を欠いて高さ約2m。元は7尺半ないし8尺塔であろう。基礎は西と南は素面、残る二面は輪郭を巻いて大きめの格狭間を入れ、内側を三茎蓮で飾る。格狭間は花頭曲線・側線の曲線とも概ね破綻のない整いを見せるが、東側面の一番外側の小弧が若干下がり気味で、北側側面の側線に少し硬さがある。三茎蓮は格狭間内に大きく配され、優れた出来映えを示す。二面ともほぼ同じ左右対称式だがよく見ると左右の葉の角度が微妙に異なっている。下端は腐葉土に埋まって確認できないが輪郭の幅には上下左右にさほど差は認められない。塔身は一石よりなり、軸部はやや胴張りぎみの円筒状で上下に2条の平行線刻帯を鉢巻き状に廻らせ、東側のみ左右の方立と中央の定規縁と上下の長押を帯線で表現した扉型を刻みだしている。饅頭型部の曲面は狭く、内傾気味に素面の首部を立ち上げる。笠は低からず高からず屋根の適度な勾配を見せ、底面に一重の垂木型を彫りだす。軒先は厚く隅に行くに従って厚みを増しながら力強く反り、下端より上端の反りが強い。 隅降棟にはわずかに照りむくりが見られ、断面凸状の隅棟の突帯が露盤下をめぐり隣り合う隅棟どうしを連結し、鬼板も見られる。 露盤も高くほぼ垂直に立ち上げてしっかり削りだしてある。露盤は四面素面。相輪は九輪までが残り先端は亡失している。伏鉢、続く単弁の請花はともにスムーズな曲線を示しつつくびれ部分に脆弱さを感じさせない。九輪部は凸部が太いが凹部の彫りは単なる線刻ではなく、深くきっちり彫ってある。4輪目と5輪目の間で折れたのを接いでいる。先端の宝珠と請花の欠損が惜しまれる。銘文は見当たらない。基礎の高さと幅の比、格狭間の形状、笠の軒反、シャープな印象を与える彫りの確かさなど鎌倉後期様式の一典型と見てよい。14世紀前半のものと推定する。薄暗い山林に寂しく立つ姿は印象的で、周囲が湿地になっているためか塔全体が薄っすら苔むして緑色になっている。石造宝塔としては東近江市内でも屈指の優品で市指定文化財建造物。
余談:ちなみに石造美術の宝庫である東近江市で屈指の優品ということは日本でも屈指の優品と換言できます。もっとわかりやすくいうと、「堺市でも屈指の前方後円墳」とか「奈良市で屈指の仏像」というような意味になると思いますが、マイナー路線のつらいところです。
参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上)370ページ、411~412ページ
五個荘町史編纂委員会 『五個荘町史』 860~861ページ
池内先生のデータをお示しいただきありがとうございました。早速当資料を取り寄せ勉強いたしたいと存じます。
また当方のデータ等判明しましたらお知らせいたします。ありがとうございました。
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鎌倉だ室町だと造立年代の新古や美術的な巧拙などを問わなければ、我国に石造物が見られない地域はないといっていいでしょう。そしてどのような石造物であれ、それぞれの地域の祖先のさまざまな思いを今に伝える、かけがえのない唯一無二の遺品だと考えています。にもかかわらず、なおざりにされ見失われがちな石造物のそうした価値を再発見していただけるよう少しでもお手伝いができないものか、そしてその価値を発信していけないものかとだいそれたことを考えております。また、古く美しいものを取り上げることは所詮方便、時代の新古や作品の出来映えだけではない石造物の本当の価値に対する理解を助ける方便に過ぎないと信じています。不勉強な若輩者ではありますが、小生自身が石造物を通じてその向う側にある本当の価値に対する理解を深めていかねばならないと考えています。今後ともご愛顧並びにご指導賜れれば幸甚です。
前略
当方は福井県の宗教史を勉強していますが、石造美術は素人です。当方は目下福井県の山林寺院を調査中ですが、泰澄開基の日野権現跡に自然石製の板碑に単制無縫塔(関西様式)が陽刻され、しかも宝瓶付き三茎蓮(近江様式)が左右に配されています。滋賀県と福井県は隣り合う県ですので京からの文化流入は必ず近江を通過したことになり、石造美術に限らず密接なつながりがあるはずと考えられます。田岡香逸先生の著作を読みましたが、図が省かれているため、もう少し理解が進みません。さらに近江の石造品は多くは宝塔、宝きょう印塔が多く、三茎蓮の図柄は格狭間に彫られるため縦幅に制約があって、縦詰まりの図柄になっており、余り参考品が見当たりませんでした。また田岡先生は近江蔵王修験と蔵王石工の関係を示唆されており、隣り合う近江修験、近江石工が越前修験へアプローチした痕跡では無いかと考えております。御教示いただきました、「滋賀県石造建造物調査報告」は未見でしたので、現在図書館を通じて取り寄せ中です。因みに古書店をあたりましたが、この本は需要が多いせいか、市場には出ていません。また勉強させていただきます。まずは御礼まで。ありがとうございました。
コメント頂戴しありがとうございます。
『滋賀県石造建造物調査報告書』ですが、200部しか刷られていませんので、古書市場に出ることはまずないと思われます。ただ、滋賀県内の図書館には概ね備え付けられていると思われます。小生は東近江市内の図書館で無理を言って複写をしてもらいました。
同書は総覧的で実に役に立つものですが、うたわれているように「悉皆」ではありません。県内の石造物を網羅的に調査しようという取組として高く評価できるものですが、時間的な余裕がなかったのか、報告書自体は完成度や信頼性の点で難があります。(石塔が中心で石仏や石燈籠が省かれており、田岡先生や川勝博士の記述をほとんどそのままパクっている箇所も多く、見解の相違はやむ得ないとしても、個別の解説に濃淡があり過ぎ、何より誤植が多いのはいただけません)
あと、『民俗文化』の古いバックナンバーは古書市場に出ています。昭和40年代以降ほぼ滋賀県下各地を調査された田岡先生の石造美術に関する調査レポートが毎月のように掲載されており参考になります。
最近、(財)滋賀県文化財保護協会の『紀要』21号に上垣幸徳氏による徳源院京極家墓所宝篋印塔群の基礎装飾文についての論考が掲載され、三茎蓮の分類にも挑戦されており注目しているところです。それから田岡先生のいわれた「蔵王」のある『近江日野の歴史』第5巻文化財編が最近出ていまして、兼康氏による石造美術に関する記載は、最近稀に見る力強い内容です。ご参考までに。
前略
再々のご教示恐れ入ります。私的なことですが、当方は野洲に6年ほど住んでおりましたので、第二のふるさとともいえるところで、近江の各地を見たつもりだったのですが、地名を聞いても知らないところばかりで、飲み込みが悪く残念です。現在は定年後の気まま暮らしです。
ところで、ご教示いただきました、民俗文化はまだ古い年代のものは手に入れておりません。日野町史や『紀要』の兼康先生の論考は読みましたが、21号は未読です。是非とも読んでみます。
まずは御礼まで。ありがとうございました。