9月定例会議初日、今回の一般質問では、藤原家隆の和歌、西浦門前遺跡の発掘調査概要、その他複数の史料に基づき水無瀬山の位置について考察しました。
識者や住民の研究から得た知見や史料を基に、学芸員に確認して「よみがな」を打ってのぞみました。もうこれ以上先送りはできず、今のわたしの理解で行った質問です。
以下、抜粋、要旨。長文ですが分割せずに掲載します。
(Ⅱ)
「水無瀬山」はどこにある?
~西浦門前遺跡と和歌からの考察~
水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出づるも 涙落ちけり
これは、鎌倉時代初期の公卿、歌人であった藤原家隆の和歌です。
水無瀬の滝は人工的なの?
家隆の歌にある「せきいれし滝」は、果たして水無瀬の滝なのか、という指摘、疑問からはじまりました。
町のHPには「水無瀬の滝は、天王山の西尾根から発した滝谷川が、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20メートルの清冽な滝で、水枯れをしたことがないという。」(にぎわい創造課)と紹介されています。
「せきいれし」の「せき」が、水を他へ引いたり流量を調節したりするために川水などをせきとめること、あるいは所(堰)をいうのであれば、冒頭ご紹介した藤原家隆の句にある「せきいれし滝」は、東大寺・水無瀬の滝ではなく、どこか別のところにある人工的なものと考えられます。
家隆の生きた時代、東大寺の水無瀬の滝の背後の山が水無瀬山と認識されていたとは考えにくい。水無瀬山の位置について、町として、どのように考えているのか見解を問いました。※ひとことでいうなら「諸説あります」的な答弁でした
西浦門前遺跡の庭園遺構
2014年(平成26年)6月、小野薬品工業株式会社の新研究棟(桜井3丁目)建設工事に伴う埋蔵文化財調査において、後鳥羽院の水無瀬殿の庭園跡と考えられる遺構が発掘され、そこには人口的な滝組の石が含まれていました。
「水を池に注ぐための施設である遣水跡、遣水から注がれる水を溜める小さな上の池、上の池の水があふれ、滝となって下の池へと流れ落ちる滝口である滝組の石、滝から流れ落ちる水を受ける大きな下の池、上の池に沿って並べられた景石(けいせき)から構成されていた」(HP・町立歴史文化資料館)
家隆がいうところの「せきいれし滝」ではないだろうか、と考えたくもなりますが、これについては慎重な考察が必要で、発掘調査結果の報告書を待たなければなりません。
古地図が重要です
江戸時代中期に活躍したという地図の考証家・森幸安(こうあん)の宝暦年間「摂津国地図」(国立公文書館蔵)によれば、水無瀬川を挟んで、水無瀬の滝は天王山側に、水無瀬山は桜井側に位置しています。明らかに、桜井、神内方面にある山を「水無瀬山」としています。
江戸時代後期の中川家御年譜(大分県竹田市教育委員会編)の「摂津図抄」でも水無瀬山は水無瀬川右岸、桜井側にあるとしています。これらの史料・古地図の存在を島本町教育委員会はどう考えているのでしょう。
古い絵図については、その信ぴょう性が疑わしものもあり、慎重に判断しなければなりません。実際、後の時代には、天王山・山崎方面の山を水無瀬山としている地図も存在します。
しかしながら、水無瀬殿が存在した時代、ここで生き、暮らした人びとが水無瀬山をどのように認識していたか、がむしろ重要です。
古文書にある水無瀬山
郷土史を研究されていた奥村寛純氏が編集・解読された『水無瀬荘資料集成Ⅰ寛政四年廣瀬村明細鑑記録』(郷土島本研究会)です。ここにある記述は注目に値します。
※島本町役場庁舎 文化情報コーナーにあります。島本町立図書館にもあるはずです。
「1803年・村方明細書上帳(むらかためいさいかきあげしょ)・廣瀬村」に、中堤川は川幅4尺、水無瀬山ゟ(より)流出、上牧村の洫(みぞ)へ流れ落ちている、とあり(151㌻)、また、「摂津國嶋上郡廣瀬村明細書」にも、中堤川は幅八尺ほどで川上は水無瀬山ゟ(より)流出、當村(とうそん)、すなわち廣瀬村へ掛り、というふうに書かれています(161㌻)。
水無瀬山は水無瀬川右岸に位置していると考えるのが妥当ではないでしょうか。
まとめ
縁あって、水無瀬殿の在りし日の姿を研究する機会に恵まれ、桜井の田園風景と背後の山並み、天王山、男山への眺望、石清水八幡宮との関係性など、すべて見事な、当時の都市計画であったと考えるようになりました。
廣瀬(国木原くぬぎのはら)遺跡、西浦門前遺跡における庭園遺構の発掘は、これまでの見解を見直す必要に迫られる大きな発見でした。
地形を生かした滝の石組のある庭園遺構が桜井3丁目で発見されたことは、桜井方面に水無瀬殿が広がっていたことを示唆しています。
御所ヶ池周辺にかろうじてその面影がのこされ、男山から日が昇り、背後の山に日が沈む、という太陽の軌道との関係性もみられます。日の昇る東方には浄瑠璃浄土、日が沈みゆく西方には極楽浄土が表現されていたかもしれません。
こういったことを、わたし自身が理解できるようになったとき、既に島本駅西側の開発計画は進んでいました。そのことにより、水無瀬殿を開発反対の理由にしている(反対のために利用している)との誤解を招いているとしたら、それはわたしにとってではなく、むしろ島本町にとってたいそう不幸なことです。
開発が進められるのであれば、後鳥羽院のまちづくりの思想が、JR島本駅西土地区画整理事業に活かされ、そのことによって街区の付加価値が高められるよう、町は最善を尽くすべきです。
そのためには、まず、島本町教育委員会が西浦門前遺跡を含む桜井の歴史文化的価値について公的な見解を示すこと。水無瀬殿研究における仮説的考察に寛容かつ謙虚に、柔軟性をもって協力的であることが重要と訴えました。
画像
2011年7月
JR島本駅西にて
あの頃
庁舎からの帰路
議会のあれこれに
ため息をつきつつ
ここで心を清めていました
識者や住民の研究から得た知見や史料を基に、学芸員に確認して「よみがな」を打ってのぞみました。もうこれ以上先送りはできず、今のわたしの理解で行った質問です。
以下、抜粋、要旨。長文ですが分割せずに掲載します。
(Ⅱ)
「水無瀬山」はどこにある?
~西浦門前遺跡と和歌からの考察~
水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出づるも 涙落ちけり
これは、鎌倉時代初期の公卿、歌人であった藤原家隆の和歌です。
水無瀬の滝は人工的なの?
家隆の歌にある「せきいれし滝」は、果たして水無瀬の滝なのか、という指摘、疑問からはじまりました。
町のHPには「水無瀬の滝は、天王山の西尾根から発した滝谷川が、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20メートルの清冽な滝で、水枯れをしたことがないという。」(にぎわい創造課)と紹介されています。
「せきいれし」の「せき」が、水を他へ引いたり流量を調節したりするために川水などをせきとめること、あるいは所(堰)をいうのであれば、冒頭ご紹介した藤原家隆の句にある「せきいれし滝」は、東大寺・水無瀬の滝ではなく、どこか別のところにある人工的なものと考えられます。
家隆の生きた時代、東大寺の水無瀬の滝の背後の山が水無瀬山と認識されていたとは考えにくい。水無瀬山の位置について、町として、どのように考えているのか見解を問いました。※ひとことでいうなら「諸説あります」的な答弁でした
西浦門前遺跡の庭園遺構
2014年(平成26年)6月、小野薬品工業株式会社の新研究棟(桜井3丁目)建設工事に伴う埋蔵文化財調査において、後鳥羽院の水無瀬殿の庭園跡と考えられる遺構が発掘され、そこには人口的な滝組の石が含まれていました。
「水を池に注ぐための施設である遣水跡、遣水から注がれる水を溜める小さな上の池、上の池の水があふれ、滝となって下の池へと流れ落ちる滝口である滝組の石、滝から流れ落ちる水を受ける大きな下の池、上の池に沿って並べられた景石(けいせき)から構成されていた」(HP・町立歴史文化資料館)
家隆がいうところの「せきいれし滝」ではないだろうか、と考えたくもなりますが、これについては慎重な考察が必要で、発掘調査結果の報告書を待たなければなりません。
古地図が重要です
江戸時代中期に活躍したという地図の考証家・森幸安(こうあん)の宝暦年間「摂津国地図」(国立公文書館蔵)によれば、水無瀬川を挟んで、水無瀬の滝は天王山側に、水無瀬山は桜井側に位置しています。明らかに、桜井、神内方面にある山を「水無瀬山」としています。
江戸時代後期の中川家御年譜(大分県竹田市教育委員会編)の「摂津図抄」でも水無瀬山は水無瀬川右岸、桜井側にあるとしています。これらの史料・古地図の存在を島本町教育委員会はどう考えているのでしょう。
古い絵図については、その信ぴょう性が疑わしものもあり、慎重に判断しなければなりません。実際、後の時代には、天王山・山崎方面の山を水無瀬山としている地図も存在します。
しかしながら、水無瀬殿が存在した時代、ここで生き、暮らした人びとが水無瀬山をどのように認識していたか、がむしろ重要です。
古文書にある水無瀬山
郷土史を研究されていた奥村寛純氏が編集・解読された『水無瀬荘資料集成Ⅰ寛政四年廣瀬村明細鑑記録』(郷土島本研究会)です。ここにある記述は注目に値します。
※島本町役場庁舎 文化情報コーナーにあります。島本町立図書館にもあるはずです。
「1803年・村方明細書上帳(むらかためいさいかきあげしょ)・廣瀬村」に、中堤川は川幅4尺、水無瀬山ゟ(より)流出、上牧村の洫(みぞ)へ流れ落ちている、とあり(151㌻)、また、「摂津國嶋上郡廣瀬村明細書」にも、中堤川は幅八尺ほどで川上は水無瀬山ゟ(より)流出、當村(とうそん)、すなわち廣瀬村へ掛り、というふうに書かれています(161㌻)。
水無瀬山は水無瀬川右岸に位置していると考えるのが妥当ではないでしょうか。
まとめ
縁あって、水無瀬殿の在りし日の姿を研究する機会に恵まれ、桜井の田園風景と背後の山並み、天王山、男山への眺望、石清水八幡宮との関係性など、すべて見事な、当時の都市計画であったと考えるようになりました。
廣瀬(国木原くぬぎのはら)遺跡、西浦門前遺跡における庭園遺構の発掘は、これまでの見解を見直す必要に迫られる大きな発見でした。
地形を生かした滝の石組のある庭園遺構が桜井3丁目で発見されたことは、桜井方面に水無瀬殿が広がっていたことを示唆しています。
御所ヶ池周辺にかろうじてその面影がのこされ、男山から日が昇り、背後の山に日が沈む、という太陽の軌道との関係性もみられます。日の昇る東方には浄瑠璃浄土、日が沈みゆく西方には極楽浄土が表現されていたかもしれません。
こういったことを、わたし自身が理解できるようになったとき、既に島本駅西側の開発計画は進んでいました。そのことにより、水無瀬殿を開発反対の理由にしている(反対のために利用している)との誤解を招いているとしたら、それはわたしにとってではなく、むしろ島本町にとってたいそう不幸なことです。
開発が進められるのであれば、後鳥羽院のまちづくりの思想が、JR島本駅西土地区画整理事業に活かされ、そのことによって街区の付加価値が高められるよう、町は最善を尽くすべきです。
そのためには、まず、島本町教育委員会が西浦門前遺跡を含む桜井の歴史文化的価値について公的な見解を示すこと。水無瀬殿研究における仮説的考察に寛容かつ謙虚に、柔軟性をもって協力的であることが重要と訴えました。
画像
2011年7月
JR島本駅西にて
あの頃
庁舎からの帰路
議会のあれこれに
ため息をつきつつ
ここで心を清めていました