ドナウ川の白い雲

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「行き過ぎた」体罰

2013年01月11日 | 随想…スポーツ

 「行き過ぎた」体罰があった。 ‥‥ これは、桜の宮高校校長のインタビューでの言葉である。

 テレビでこれを聞いて、「これは、だめだ」、と思った。 事、ここに至って、なお、「行き過ぎた」とは!

 行き過ぎなければ、体罰もまた指導。この校長は、そう思っているのだ。 

 トップが、こういう言い方をしている間は、この学校から、絶対に体罰はなくならない。

  「体罰は、許さない」。学校のトップである校長は、そういう断固とした態度を持し、絶対にぶれてはいけない。

  絶対にぶれてはいけないとは、他の面でどんなに優秀だと思う教員でも、もし体罰があれば、断固、厳罰に処する、その覚悟が必要である、ということだ。

 駄目教員の中にも、優れた教員の中にも、体罰をする教員はいる。 

 校長が彼らに注意すると、「はい、はい」と答える。しかし、実は馬耳東風なのだ。

  殴ったり蹴ったりして人間を従わせることを覚えた人間は、癖になる。自分をたいした人間だと無意識のうちに感じるようになる。他の教員を指導力がないと思う。困った生徒がいたら俺の所につれて来い、などと不遜な思いを抱くようになる。癖となり、習慣となると、タバコと同じで、口頭の注意などでやめられるものではない。

  だから、校長は、体罰を、「教員による対生徒暴力」ととらえ、断固、これを否定しなければいけない。もし他の面で優秀だと思う教員であれば、なおさらである。事を明らかにし、生徒・保護者に対して謝罪させ、全教員に知らせ、公的処分を行う。そうすることによって、全教員が、体罰は教員としての失格行為なのだと知る。今回のような大事件にならないうちに、(体罰があったことを知ったらすぐに)、そうする。そうすることが、結局、一人の教員を、将来の破滅から救うことになる。

 今回の件について、この教員を知る歴代の校長は、自分が何もしなかったこと、体罰を見逃してきたこと、自らの体罰に関する認識が甘かったこと、そのことによって、一人の教員を破滅へと追いやった、ということ、何よりも一人の生徒を死に至らしめたということを認識すべきである。

 この教員の資質の問題はあろう。しかし、今回は、あえて、気の毒ではあるが、校長の姿勢を問うた。多分、この学校は、部活動で手柄を立てたい教員の、体罰の巣だと察する。

          ☆

 橋下大阪市長が、今回の件について、断固として、立ち上がった。

 今まで、体罰について、これほど毅然と立ち上がった首長や教育委員会や教育長がいただろうか?

 上に立つ者が毅然としなかったから、「行き過ぎた」体罰などという、ふやけた言葉が、事ここに至ってなお、校長からさえ、出る。

 この一点でも、橋下徹は、偉いやつだと思う。単なる体育会系ではない。

 

 

 

 

 

 

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