一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

光る頭

2009-08-21 11:43:25 | 将棋雑記
昨日はNHK衛星第2放送で、大山康晴15世名人と升田幸三実力制第4代名人の特集番組があった。
大山15世名人が1992(平成4)年、升田実力制第4代名人が1991(平成3)年の没だから、お二方と面識のない世代も増えてきた。だから、もはや伝説となった両巨頭と交流のあった棋士および関係者は、宝石のような思い出を有しているわけで、羨望の念を禁じえない。
そんな私が、1度だけ大山15世名人を目にしたことがある。それも東京・将棋会館ではなく、旅行中のことだった。
あれは1990年だったか91年だったか、私が東北を旅行し、青森県川北郡奥入瀬町にあるカワヨグリーンユースホステルに泊まったときのこと。1泊した翌朝、ペアレント(オーナー)さんが、「いま将棋の強い人がすぐそこに来ているよ」というようなことを言った。
私は半信半疑で表へ出る。このユースは周りが牧場となっているが、80メートルぐらい先で、おじさんの団体が、なにかを視察しているようだった。
その中に、見事に頭が禿げあがった男性がいた。あれは…あの頭は…間違いない、大山15世名人であった。なんという神々しさであろう。そこに毎日…ではない、朝日が直射して、後頭部がピッカリ光っていた。文字通り眩しかった。
青森県といえば、大山15世名人が「第2の故郷」と位置づけていた百石町がある。今回も、青森県の将棋普及に傾注していた中戸よしひろ氏の案内で、近郊を回っていたに違いない。
私は大山15世名人の光る頭を遠くから拝見し、その場でボーッとするだけだった。
ところで日本女子プロ将棋協会(LPSA)の女流棋士は最年少でも28歳だから、全員が大山15世名人と面識があるはずだ。
それも羨ましいが、私は大山15世名人より、LPSAの女流棋士にお目にかかれたこと、指導対局を受けられたことのほうが、はるかな自慢である。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は久しぶりに、LPSA金曜サロンへ行きます。

2009-08-20 23:35:12 | LPSA金曜サロン
明日21日は、久しぶりにLPSA金曜サロンへ行く。
3週間ぶりだから、月に1回顔を出す程度の会員ならばふつうの間隔だろうが、ほとんど金曜サロンに入り浸っていた私には、文字どおり久しぶりの感じがするのだ。ちょっと懐かしくもある。しかも前回伺った7月31日は、植山悦行手合い係もいらっしゃらなかったうえ、早退?したので、余計その感が強い。
なんかこの感じ、風邪で休んでいた小学生が、全快して久しぶりに登校するときの心境に似ている。クラスメート(会員)は、前と同じように歓待してくれるだろうか。それとも「あ、どーも」という感じで、淡々と授業(対局)が進行していくのだろうか。妙にドキドキする。
私は休みボケで、まだ心が沖縄に残っている。まだ将棋モードに切り替わっていないが、とにかく明日は持てる力を精いっぱい出して、悔いのない将棋を指したい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビと映画

2009-08-19 23:39:42 | 将棋ペンクラブ
以下に記す7つの郵便局は、私が今年沖縄で貯金した郵便局である。
これらの郵便局には、ある共通点がある。分かりますか。解答は末尾。

21-07-03 長間郵便局
21-08-07 大山郵便局
21-08-10 大浜郵便局
21-08-11 鳩間郵便局
21-08-12 小浜郵便局
21-08-13 黒島郵便局
21-08-14 八重山郵便局

一昨日は、湯川博士先生と私との緊張感あふれるやりとりを記したが、なんとか次号の将棋ペンクラブ会報にも、拙稿が掲載される運びになったようである。
ところで一般愛棋家がこの会報を読むためには、将棋ペンクラブの会員になることが必須である。まさか私の拙稿が読みたいという方はいないと思うが、もし物好きな方がいらしたら、「将棋ペンクラブ」で検索して、入会の手続きを取ってほしい。このブログがおカネのかからないテレビだとすれば、会報に書く原稿は映画みたいなもので、読むのにおカネがかかる、というわけだ。「ごくせん」と「ごくせん THE MOVIE」の違いといえる。
年会費は3,000円。入会すると、「会報(80頁前後)」が3月と9月、「通信(32頁)」が6月と12月に送付されてくる。中途入会は、その年の初めから発行済の会報(通信)が送られてくる(と聞いた)。
現在ペンクラブでは、「駒落ち道場」の挑戦者を募集中。プロ棋士にタダで指導対局が受けられるうえ、その自戦記も会報に載せることができる特典?がある。
そのほか、これは会員でなくても参加可能だが、毎年9月か10月に、将棋ペンクラブ大賞贈呈式がある。会費は8,000円とちょっと高めだが、著名人が多く参加し、女流棋士も指導棋士として参加され、たいそうにぎやかな会である。もっとも私は昨年に1度参加したきりだが。

ここで冒頭のクイズのヒント。
「鳩間郵便局」は、正式には「鳩間簡易郵便局」なのだが、それだと仲間外れになってしまう。これで答えが分かりましたね?

先月15日のマイナビ女子オープン予選抽選会のとき、中井広恵女流六段から、
「ブログに書いている一公さんと、会報に書いている一公さんと、どちらが本当の一公さんなの?」
と訊かれたが、どちらも本当の私である。ブログでの非常に健康的すぎる記述は、一部のコアなファンにサービスで書いているようなもので、どちらかといえば、後者が「本当の私」と云える。むろん文章にかける時間も、後者のほうが圧倒的に多い。文章の構想、推敲、いずれも時間をかけてしっかり行っている。
では会報や通信に掲載されたほうが面白いのか、と言えばそうでもない。大して時間もかけず、気楽にブログに書いた方が面白いケースが多いから、始末が悪い。
現在発行中の将棋ペンクラブ夏号(通信)には、第2期マイナビ挑戦者決定戦の模様を控室から見た形で書いているが、幹事のW氏に入稿したときは、けっこう面白い読み物になっていると自負していたのだ。
ところが刷り上がった通信号を読んでみると、あまり面白くなかった。後世に残る紙媒体だと、ついチカラが入って、余裕がなくなってしまうのかもしれない。
さて、もしあなたが将棋ペンクラブに入会したら、それは「宿命」。その後会報を読んで面白いと思うか、つまらないと思うかは、「運命」ということになる。さあ、どうしますか?

冒頭のクイズの解答:郵便局の名称の末尾が、すべて「ま」で終わる。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再会

2009-08-18 23:41:22 | 旅行記・沖縄編
石垣島の話を続ける。
14日(金)、この日は離島へは行かず、川平湾を瞥見したあと、そこから徒歩で30分の場所にある底地ビーチでのんびりし、夕方に白保で行われる豊年祭を見物するつもりだった。
しかし午前9時35分すぎに石垣バスターミナルに行くと、東バス川平リゾート線・9時35分発が出たばかりだった。次に川平へ行くバスは10時45分発の伊原間線か、10時50分発の川平リゾート線である。まあ急ぐ旅でもないので、街をぶらぶらして乗り場へ戻ってくると、見覚えのある人が、窓口にあるバス時刻表を手に取っていた。
なんと、ベルサイユ高田尚平六段であった。高田六段は9日(日)の「第1回八重山子ども将棋まつり」に指導棋士として出席し、チビッ子相手に精力的に指導対局をこなしていた。そのままトンボ帰りするのはもったいないから何日かは八重山に滞在するだろうとフンでいたが、まさかまだいらっしゃるとは思わなかった。
むろん私には嬉しい再会で、畏れ多くも声を掛けさせていただく。高田六段も「おおー!」と笑顔で応対してくれ、私たちはそのまま1番のりばのベンチに座り、雑談をした。
すると、今回高田六段が石垣の地へ降りることができたのは、偶然が重なっての、奇跡的なものだということが分かった。
以前も書いたが、今夏は台風8号が猛威を振るい、八重山へ行きたくても沖縄本島で足止めを食らった旅行者が多かった。むろん高田六段も私もそのひとりである。
しかし台風も台湾へ抜け、9日になって、なんとか飛行機が飛ぶ見通しになった。ところがANAは石垣へ向かうことになったものの、JTA(ジャパントランスオーシャン)は、飛行機の関係で朝の便の欠航が決まってしまった。
困ったのが高田六段である。高田六段はJTAのチケットを用意していたからだ(ちなみに私はANAだった)。途方に暮れていたところへ、なんと以前面識のあった女性と、たまたま那覇空港で遭遇したという。しかも彼女は何便も予約を押さえていて(細かいことだが、これはモラルに反している)、そのうちの1席を高田六段に譲ってくれたというのだ。むろん彼女も一人旅だったから、実害はなかった。
「もし彼女がそこを通らなかったら…」
「もし私が彼女と知り合いでなかったら…」
「もし彼女が忘れ物をして空港に戻ってこなかったら…」
高田六段は、奇跡の出会いを神に感謝するように、しみじみと述懐した。だから9日の開会式で、高田六段が「みんなのおかげで、私はここに来ることができました」と述べたのは、あながちオーバーな表現でもなかったのだ。
長崎県の喫茶店のマスターは言う。この世に偶然はないのだと。物事を実現させるためには、イメージすることが大切なのだと。
高田六段の、是が非でも石垣島へ行くという想い、高田先生に将棋を教えてほしいというチビッ子の想いが、那覇空港で高田六段と彼女とを引き合わせたとは言えまいか。
とはいうものの、もし高田六段が大濱信泉記念館に着かなかったら、指導対局はどうなっていたのだろう。これは大会の成績自体には関係がないから、進行に影響はなかったと思うが、チビッ子が「プロの先生に将棋を教わりたい」なんて言い出したら、収拾がつかなかったのではなかろうか。
その場合、不肖私が、「LPSA植山悦行手合い係の代理として伺いました」とか言って、したり顔で子どもたちの相手をしていたかもしれない。
ところで高田六段の、10日以降の行動はどうだったのか。10、11日だったか、高田六段は西表島の「いるもて荘」に連泊したという。いるもて荘はユースホステルも経営しているので、もちろん私も泊まったことがある。
高田六段は「ゆんたく」の時間で「将棋棋士」だと告げると、たちまち宿泊客の注目を浴び、何人かと将棋を指したという。よく将棋盤と駒を持っていたものだと感心するが、高田六段は、いつも筆ペンと落款は持ち歩いているという。さすがのプロ意識である。
とにかく、宿での指導対局は、本当に羨ましい話である。子ども将棋まつりで指導対局を受けたチビッ子もそうだが、ここの宿泊客も、プロ棋士と将棋を指せることがどんなに貴重なことなのか、キチンと把握しているのだろうか。
しかも、いるもて荘とは…私も展開によっては、この宿に泊まっていた可能性はある。これは運がないというべきか、それともここで再会できた奇跡を喜ぶべきなのだろうか。
私が「八重山に16回来ています」と言うと、「ボクは27回目です」と言われ、凹んだ。まあ将棋界にも沖縄好きがいるとは思ったが、高田六段が八重山フリークとは思わなかった。歌舞伎役者のような端正な顔立ちからは、そのイメージがまったく沸かないだけに、なおさら意外だった。
もっとも「27回」訪問の大半は、八重山の子どもたちへの将棋の普及であろう。八重山のチビッ子も、高田六段が訪れるとたいそう歓迎してくれ、「次はいつ来てくれますか?」と訊かれるという。
近年では外国の普及がやたらと目につくが、八重山諸島のような、同じ日本でもなかなか普及の手が回らない遠方の地にも、日本将棋連盟はもっと普及の目を向けるべきである。
高田六段は関係者と昼食を摂った後、やはり川平へ向かうとのことだった。
「あちらでまた会うかもしれませんね」
と高田六段は言ったが、冒頭の私の行程では、再々会はさすがに無理であった。
ともあれこれからの高田六段の、八重山諸島での活動に、大いに期待したい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湯川博士先生からの電話

2009-08-17 23:04:49 | 将棋ペンクラブ
私は携帯電話を持っていないが、旅行中は会社(自営)の携帯を拝借していく。旅先では家のことは極力考えたくないので、滅多に連絡はしないのだが、それでも1~2日に1回は電話を入れる。
先週13日(木)の夜10時すぎ、黒島の宿から自宅に電話をかけると、オヤジが出た。すると、将棋雑誌の人から電話がきたという。私はピンときた。これは将棋ペンクラブ統括幹事の湯川博士先生からではないか!? そう訊くと、オヤジはそうだと言う。しかし驚いたことに、その電話は10日(月)の夜にあったと言うではないか。
バカな!! 10日も11日も私は家に電話をかけたが、オフクロはそんなこと一言も言ってなかったじゃないか!
私が家に電話をかけるのは、両親の安否を確認するとともに、私に郵便物や電話やらがあったかを確認するためのものでもある。ただ漠然と連絡をとっているわけではないのだ。
私は青くなって電話を切ると、すぐに湯川邸へ電話をする。しかし湯川先生夫妻は不在だった。
湯川先生が私に電話をした理由は察しがつく。私が沖縄旅行3日前に投稿した、将棋ペンクラブ秋号用の原稿の中身についてだ。
以前も書いたが、私が書いた原稿は、まずW氏(断るまでもないが、LPSA金曜サロン会員のW氏とは別人)にメールで送信する。今回はW氏に予めスペースを空けてもらっておき、原稿締切日後に執筆を始めたため、だいぶタイトなスケジュールになっていた。また原稿も、以前書いた内容と酷似しており、W氏からは、「内容が以前と似ていると、掲載が冬号に廻される可能性もあります」という旨の返信もいただいていた。しかも湯川夫妻は6日まで不在だという。これでは私と行き違いになり、私の原稿に何か修正があった場合は、私に連絡の取りようがない。
しかし私には妙な自信があった。これまで私は将棋ペンクラブ会報に13回ほど拙稿を掲載されているが、湯川先生には大きな直しをされたことがない。これ、大したことがないように思えるが、W氏に言わせると、実は稀有なことらしい。
私が以前、将棋ペンクラブ関東交流会のレポートを書いたとき、窪田義行六段が紫のスーツを着て「ヒロシです」と自己紹介をしたことがあったので、その場面を書いたところ、湯川先生はヒロシをご存知でなかったのか、該当箇所をバッサリ削除、加筆されたことがあった。
湯川先生からの直しらしい直しといえばそのくらい、しかも事前に連絡もなかったので、これはW氏に言わせると「軽い」らしい。だから私は、自分の原稿は直されることがない、原文のまま載るはずだ、と高を括っていたのだ。
あれは5月9日(土)、私がLPSA主宰「中井塾」の体験学習を受けたとき、湯川先生が「江戸の名人」というタイトルで特別講義をされた。その休憩中、湯川先生が私を指して、
「彼は将棋ペンクラブの会員なんだけれども、彼は船戸(陽子)さんのファンで、青春ものの文章をよく書きます。彼の文章は無鑑査です」
と言った。万座の中で、船戸さん云々と大声で言われたのにはひっくり返ったが、「無鑑査」という表現は嬉しかった。
話を戻すが、湯川先生は会報の最終校正をされているので、ここをクリアすれば、無事掲載という運びになる。ところがW氏によると、そこに至るまで、たいていの会員が何らかの修正を余儀なくされるというのだ。
ちなみに「中」の直しになると、湯川先生からW氏に、直し依頼の連絡が入るらしい。では「大」の直しがある場合はどうか。その場合は、原稿を執筆した会員に、湯川先生から直々に、直し依頼の電話がくるというのだ。では今回の私のケースは、まさにそれに当たるのではないか? 私は、文中に何かひどい表現をしただろうか?
そう考え始めると、もう観光どころではなくなってきた。とりあえずは、湯川先生に連絡を取ることが先決だ。しかし翌14日(金)は、朝、昼、夜と3回電話をかけたが、不在。15日(土)の午前中もかけたが、同じだった。
「こっちは10日に電話をしたのに、あんたは随分返事が遅いじゃないか」
という湯川先生の嫌味が聞こえてきそうである。その上あのしゃがれ声で、我が文章の疵をグリグリと指摘されるのは、心臓によくない。
何だろう、一体何の用事だったんだろうと、もう私は半分おびえながら、午後7時すぎに、また湯川邸に電話をかけた。すると今度は湯川先生ご自身がいきなり電話口に出られたので、私は飛び上がった。
石垣市・新川豊年祭の外れの路上で、私は湯川先生の話を、体を丸めながら拝聴する。
聞くと、今回の私が本文に書いた「あるLPSA女流棋士の感動の1手」は、指し手の記述だけでは読者が分からないので、湯川先生のほうで勝手に図面を作り、挿入したとのこと。また投了以降の詰み手順も、LPSAに確認して加筆しておいた、とのことだった。
湯川先生が直々に電話をくださったのは、前述のとおり、私が原稿を遅く仕上げたのでスケジュールに狂いが生じてしまい、加筆部分を直でやりとりしたかったから、らしい。
なんだ…結局、私の取り越し苦労だったのだ。案ずるより産むが易し。いままで恐れおののいて損した…。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする