13日は朝から黒島へ向かった。ところが、島へ着いて「しまった!」。携帯している2リットル入り「さんぴん茶」の残りが少なくなっており、補充するのをうっかりしていたのだ。
宿に荷物を置いて、とりあえず「旅行貯金」をするべく宿を出ると、近くの自動販売機の500ミリリットルペットボトルは160円であった。離島だから10円割高になっているのだ(ちなみに缶ジュースは110円である)。割高でも買えばいいのだが、石垣島のコンビニでは、946ミリリットルの紙パックさんぴん茶が108円で売られている。それを思うとバカバカしくて、結局買わなかった。
沖縄、とくに八重山諸島では、水分の確保は必定である。とにかく陽射しが強いから、大量に汗をかく。つねに一定量の水分は携行しておきたい。
と言う私も、過去に水分不足でたいへんな目に遭ったことが何度もあるのだ。
石垣島中央北部にある野底岳に登った際は、350ミリリットルの缶ジュースを2本しか携帯しなかったので(当時はペットボトルがなかった)、登山の途中で水分が切れて喉がカラカラになり、またこういうときに限って同行者がいたため引き返すことも自分のペースで登ることもできず、頂上に着いたときは、息もきれぎれでしばらく動けなかった。
与那国島へ行ったときも、海岸線に沿った県道を歩いていたら水分がなくなり、近くに自動販売機もなく、このときもほとほと参った。よほど海に入っちゃおうか、と思ったものだった。ようやっと市街地に戻り、自動販売機でジュースを買い、プルトップを開けるときのプルプル震えた指を、いまでも覚えている。
石垣島の南西に位置する御神崎(うがんざき)を1周したときが最も酷かった。これも途中で水分が切れたが、辺りは何もない一本道なので、ひたすら岬を歩くしかない。
汗を大量にかいて、脱水症状になりかけていたと思う。大きな赤い箱を見るとジュースの自動販売機かと思い、期待して近づくと違っていて、落胆したことが何度かあった。
もう半分意識がもうろうとしかけたころ、ある家の前に自動販売機があり、もう騙されないぞとそろそろ歩を進めたら「本物」で、地獄に仏とはこのことかと、心底嬉しかった。
1本、また1本と買って、計4本を飲んだ。このときほど水分の有難みを実感したことはない。私はそのまま自動販売機の横にへたり込む。放心したような、生き返ったような、なんとも不思議な気持ちだった。辺りを、放し飼いのニワトリが歩いていた。私は記念に、この自動販売機をカメラに収めたものだった。
「ヒトは水だけで生きられる」
私はこの時、本気でそう思った。
宿に戻ってこのことを話すと、女主人が言うには、そこの家は、自分たち家族が飲むために自動販売機を設置していたのだそうだ。もしあのとき販売機がなかったら、私はどうなっていたか分からない。
というわけで、将棋の「歩切れ」は、「喉の渇きに相当する」と私は思う。
水は大量にあっても有難みはないが、なくなってくると、「渇水」となって生活問題となる。
将棋もそうである。歩の持ち駒が10枚もあればさすがに多いと感じるが、歩切れの状態だと、なにか指しづらい感じがしないだろうか。どこかで歩がほしい、と感じないだろうか。この心理、水がほしいときの感覚によく似ていると思うのだ。そして1歩を手に入れたときのどこかホッとした気持ち、経験したことはないだろうか。
かつて芹沢博文九段が、「歩切れの場合でも、つねに1歩が入る局面にしておけばいい」という意味のことを言った。
まあこれは高級な教えとしても、このブログを読んでいる将棋の初心者はいないと思うから言わずもがなだが、持ち駒に常に歩がある状態を心がけておく、逆に言えば、相手にむやみに歩を渡さないことを注意すれば、グンと勝率はアップするはずである。
宿に荷物を置いて、とりあえず「旅行貯金」をするべく宿を出ると、近くの自動販売機の500ミリリットルペットボトルは160円であった。離島だから10円割高になっているのだ(ちなみに缶ジュースは110円である)。割高でも買えばいいのだが、石垣島のコンビニでは、946ミリリットルの紙パックさんぴん茶が108円で売られている。それを思うとバカバカしくて、結局買わなかった。
沖縄、とくに八重山諸島では、水分の確保は必定である。とにかく陽射しが強いから、大量に汗をかく。つねに一定量の水分は携行しておきたい。
と言う私も、過去に水分不足でたいへんな目に遭ったことが何度もあるのだ。
石垣島中央北部にある野底岳に登った際は、350ミリリットルの缶ジュースを2本しか携帯しなかったので(当時はペットボトルがなかった)、登山の途中で水分が切れて喉がカラカラになり、またこういうときに限って同行者がいたため引き返すことも自分のペースで登ることもできず、頂上に着いたときは、息もきれぎれでしばらく動けなかった。
与那国島へ行ったときも、海岸線に沿った県道を歩いていたら水分がなくなり、近くに自動販売機もなく、このときもほとほと参った。よほど海に入っちゃおうか、と思ったものだった。ようやっと市街地に戻り、自動販売機でジュースを買い、プルトップを開けるときのプルプル震えた指を、いまでも覚えている。
石垣島の南西に位置する御神崎(うがんざき)を1周したときが最も酷かった。これも途中で水分が切れたが、辺りは何もない一本道なので、ひたすら岬を歩くしかない。
汗を大量にかいて、脱水症状になりかけていたと思う。大きな赤い箱を見るとジュースの自動販売機かと思い、期待して近づくと違っていて、落胆したことが何度かあった。
もう半分意識がもうろうとしかけたころ、ある家の前に自動販売機があり、もう騙されないぞとそろそろ歩を進めたら「本物」で、地獄に仏とはこのことかと、心底嬉しかった。
1本、また1本と買って、計4本を飲んだ。このときほど水分の有難みを実感したことはない。私はそのまま自動販売機の横にへたり込む。放心したような、生き返ったような、なんとも不思議な気持ちだった。辺りを、放し飼いのニワトリが歩いていた。私は記念に、この自動販売機をカメラに収めたものだった。
「ヒトは水だけで生きられる」
私はこの時、本気でそう思った。
宿に戻ってこのことを話すと、女主人が言うには、そこの家は、自分たち家族が飲むために自動販売機を設置していたのだそうだ。もしあのとき販売機がなかったら、私はどうなっていたか分からない。
というわけで、将棋の「歩切れ」は、「喉の渇きに相当する」と私は思う。
水は大量にあっても有難みはないが、なくなってくると、「渇水」となって生活問題となる。
将棋もそうである。歩の持ち駒が10枚もあればさすがに多いと感じるが、歩切れの状態だと、なにか指しづらい感じがしないだろうか。どこかで歩がほしい、と感じないだろうか。この心理、水がほしいときの感覚によく似ていると思うのだ。そして1歩を手に入れたときのどこかホッとした気持ち、経験したことはないだろうか。
かつて芹沢博文九段が、「歩切れの場合でも、つねに1歩が入る局面にしておけばいい」という意味のことを言った。
まあこれは高級な教えとしても、このブログを読んでいる将棋の初心者はいないと思うから言わずもがなだが、持ち駒に常に歩がある状態を心がけておく、逆に言えば、相手にむやみに歩を渡さないことを注意すれば、グンと勝率はアップするはずである。