一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

角館の美女(第2回)

2009-09-05 10:47:00 | 小説
(第1回掲載は7月31日)

東北旅行から帰京すると、私はフィルムを現像に出した。幸運にも、「角館の美女」は3回も撮影させていただいたが、プリントされてきた3枚を見ると、奇跡的に、すべて素晴らしい出来だった。
このときの旅行は8月25日から9月3日までの10日間だったが、私は雨男で、9日雨に降られた。唯一雨が降らなかったのが角館を訪れた9月2日で、私は天の計らいに感謝した。
私は礼状とともに、その写真を送る。「私はあなたに一目ぼれをしました」としたためようと思ったが、どうしても書けなかった。
旬日を経ず、郁子さんから返事がきた。
「角館でのご遊行はいかがでしたでしょうか。また角館にお越しの際は、ぜひお寄りください」
と書いてあったと思う。全体的に落ち着いた文面で、大人の香りがする。文字も綺麗だった。
「また角館にお越しの際は、ぜひお寄りください」
飛び上がりたいほど嬉しい言葉だったが、これを額面どおりに受け取るほど、私は純粋ではない。さすがに社交辞令だったろう。それにしても「ご遊行」は初めて聞く言葉だった。学のある女性なんだな、と思った。
郁子さんのことは頭から離れなかったが、まだ私は日本各地を旅行したかったし、見聞を重ねるうち、郁子さんとの出会いも懐かしい記憶に昇華すると思っていた。
ところがその後何回旅行をしても、郁子さんの存在は、私の頭の片隅に、しっかり刻みこまれていた。
東北旅行の1年半後、私はある広告代理店に就職した。私は内定をもらうと、バイトとして新卒のみんなより一足先に働くことになった。当時はバブルの全盛期で、会社はネコの手も借りたいほど忙しかった。私は夜間の大学に通っていたので(昼の大学に受かる学力がまったくなかった)、バイトが可能だったのだ。
そのバイト中、中途入社してきた女性に、私は一目ぼれをした。将棋女流棋士の高群佐知子さんに似た古風な容貌で、それから私は、彼女…Yさんと毎日顔を合わせることが楽しみになった。
私は好きな女性の前だとアガッてしまい、まったく話をすることができない。それでも晴れて正社員になると、同期の男性社員をダシにYさんを飲みに誘ったりして、それなりに充実した毎日を送っていた。ただそんなときも、郁子さんの残像は、つねに私の脳裏にあった。
しかし「遠くの女性より近くの同僚」である。私はYさんの誕生日に、彼女の歳の数だけバラの花を買い、自作の小説に自分の想いをこめて、彼女に贈った。しかしそれから、彼女の私に対する態度が固くなった。
同じころ、世間ではバブルが崩壊し始めていた。私はある企業の広告担当代理として営業を続けていたが、その企業の成長は順調で、どんどん社員が増えていく。結果、私たちの部署の存在意義が希薄なものになっていた。その企業は、すでに自社の社員で営業が賄える体制になっていたのだ。
それに反して私の会社全体の業績も悪化し、私たちの部署もリストラの対象となった。もちろん残留する道も残されてはいたが、会社に必要とされていないのに、ミジメにしがみつくのは厭だった。
私は退職を決意する。退職日は7月9日とした。退職を決めたほかの社員は、夏のボーナスをもらうべく、もう1ヶ月勤める人が多かったようである。しかし私は、そんな空虚な雰囲気の中で仕事はできない。とにかく「イチ抜け」をしたかった。ただしその前に、私にはやることがあった。Yさんへの「正式な告白」である。
七夕の夜、私は彼女に電話をかけ、想いを告げた。そのときの彼女の言葉が、私を奈落の底に突き落とした。
「私があなたを嫌っていることを、あなたは気付いてると思ってた」
私は自分を嗤うしかなかった。Yさんに誕生日プレゼントを贈ったときの彼女の反応、その後の数々の言動から、もう脈はないな、と自覚はしていたのだ。それなのに、心のどこかで、一縷の望みを持っていた。しかしそれは哀しい勝手読みだった。
もう自玉は受けなしなのに、まだ指せるともがいていた自分が、可笑しかった。
バッサリと即詰みに討ち取られた翌日、友人ふたりに誘われてカラオケに行った。もちろん私の失恋残念会である。私は喉をからして歌う。すると、涙がどんどんあふれてきた。
涙はどこから出てくるのだろう。自己嫌悪の渦の中、涙は枯れないものなんだな、と思った。
7月9日、退職の日。Yさんはもちろん出社していたが、こちらは合わせる顔がない。思い返せば、私はいままでYさんに粘着的に迫り、さんざん不快な思いをさせてきた。これはその罰なのだ。
別の意味で苦痛の1日が終わると、私は同僚に別れを告げ、一足先に会社を去った。
その後私は、親戚のおじが経営する鉄鋼会社に勤めることになった。この会社も事業拡張の失敗から大幅なリストラを断行したが、力仕事を期待していた若手社員までもが退職してしまったため、失職してブラブラしている私に、声がかかったというわけだ。
ここでの仕事は面白くなかった。広告代理店では好きなように仕事をさせてもらってきた。職場に華やかさもあった。しかしここではほとんど人と接触することもなく、黙々と力仕事をするのみである。環境の激変で神経的にも参り、帰宅するとすぐ仮眠する日々が続いた。だが、ヒトと交わらないことが気楽だと感じたことも事実である。もともと人づきあいが苦手な私には、こうした仕事が性に合っていたのかもしれない。
やがて仕事にも慣れてくると、思いだすのは角館の美女、郁子さんのことである。彼女はいま、どうしているのだろう。
男なんて勝手なものである。Yさんに振られて、今度は郁子さんの存在が頭の中で大きくなっていたのだ。
もう一度会いたい――。
しかしあれから、もう6年近くが経っていた。当時の女性の平均初婚年齢は25.7歳だった。彼女の美貌なら、結婚していてもおかしくない。いや、結婚していないほうがおかしい。でも、一目だけでもいいから、彼女に会いたかった。
ある日、私は彼女あてに、手紙と自作の小説を投函した。唐突の感は否めないが、「私はあなたが好きだったので、もう一度会えませんか――」という趣旨の手紙だ。小説は「角館の美女」というタイトルで、この中に郁子さんへの気持ちをしたためた。つまりYさんへ迫った同じ手口を使ったのである。この迫り方、いまの私なら「待った」をしたい気分である。当時は私も若かったというしかない。
手紙の返事は、当然ながら来なかった。しかしこの結果は覚悟していた。それで私も自分の中で一区切りをつけ、彼女を諦めるつもりだった。
ところが、そうはならなかった。彼女を吹っ切るつもりが、一向に彼女を忘れることができない。手紙を投函してから3ヶ月後、私はついに角館を訪れることにした。この6年間、一度だけゴールデンウィークの時期に訪れたことがあるが、そのときは角館の町に流れる、檜内川沿岸に植えられた全長2キロの桜並木を愛でるだけだった。
今度は彼女に会うためだけに、角館へ行く。それは周りから見れば愚かなことだったのだろう。しかし当時の私のバカな行動は、それはそれで褒めてやりたいと思う。
角館へ赴く前に地元の本屋に入り、彼女の所在地を大まかに把握した記憶がある。
いよいよ角館へ向かう。盛岡で田沢湖線に乗り換え、角館で下車する。駅前通りを突きあたったところを曲がる。彼女の家は近そうだ。
とある工場で働いていた方に声を掛け、彼女の家を聞いてみる。すると意外にもご存じで、おおまかな所在地を教えてもらう。どうも、地元ではけっこう有名な家だったようだ。
田沢湖線の線路を越え、県道に出る。私は無意識に歩を進めると、ある一軒家が目に入った。私は引かれるように、その前に立つ。
表札に、3名の名前が記されてあり、その中に「郁子」という名前があった。
「あった…!!」
私は目を大きく開くと、心を落ち着けるため、深呼吸をした。それを5分くらい続けたろうか。やがて手と足の指先が痺れてきた。過呼吸になったのだ。
この家で郁子さんは生まれ育った。そして、表札に名前があるということは、いまも彼女はこの家で生活していることを意味する。
私はもう一度家の全体を見回す。中に人はいるのだろうか。玄関の戸を開けるのが怖い。心臓が口から飛び出しそうだ。しかし私は彼女に会いにきたのだ。ここで引き返すわけにはいかない。
私は思い切って、戸を開けた。
「ごめんください」
すると、
「…はい」
と返事があった。女性の声だった。
(つづく。次回掲載は未定)
コメント (8)
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