昭和11年6月、このあたりは陸軍に買収される。提示された条件は、
(ア)天皇の行幸を仰ぐに便なること。(イ)富士山を眺めうること
(これは叶わなかったが)。(ウ)用水その他生活に必要なものが
十分であること。(エ)予算275万円をを限度とすること。
であったそうだ。
相模原は、東京に近く、神奈川県北部の相模野台地上にあって起伏の
ほとんどない平坦地であり、しかも土地価格が安価で、広大な土地で
あった。
軍人の養成機関、生産施設、医療施設などをつくる構想で、
陸士・陸軍士官学校並びに同練兵場が、その柱だったようである。
陸軍士官学校は、昭和12年9月に市ヶ谷から移ってくる。
まあ、こんな顔つきのムードになっていったのでありましょうか。
昭和12年12月20日、第50期生の卒業式に行幸された
天皇陛下は、陸士所在地を「相武台」と命名される。
写真が、その記念碑です。
ここに、相模原の歴史がはじまり、敗戦後のアメリカ(一応、
連合軍だが)“座間キャンプ”へとつながっていく。
これは、天皇陛下のためにつくられた待避壕です。
天井の厚さ、1.6㍍もあるとか。
使用されたことはないと思われます。
これは、キャンプ内で見かけた鳥居。
他にも保存・管理される神社あとの鳥居があった。
「相武台」の記念碑もそうだが、歴史の浅い米国人はこうした
ものに想像以上に気を遣っている、大切にしているように
思われました。
昭和11年当時、座間・新磯・大野・麻溝の町村長が陸軍に
呼ばれたとあります。
以来、雑木林がきれいに管理されてきたという印象をもつ
“相模原”一帯ですね。
自衛隊広報のサトウさん。
相模女子大の女子大生。
“はやぶさ”の模型と研究施設。
座間キャンプと米軍住宅などの広大な土地と施設。
その他。
効外都市“相模原”の歴史と現在です。
これをどう、みますか。
少なくとも、田中角栄論理で出来上がった都市ではありませんね。