以下コメント欄から引用
面白い見解だと思います。
総監督を引き継ぐ横山は 当然 たかみなまでが第1章で、自分が第2章を責任もって引っ張らないといけないという使命感。 その意識で正しい、そうじゃないといけない。
1期生こじはるは、当初の目標東京ドーム・エース前田の卒業までが第1章で こじはるに第2章はなく この方は いい意味で? こじはるだけに許される存在様式として その後のAKB活動を流しているww
指ヲタである私たちは さしこ政権が前田・大島の第1章に次ぐ第2章だと思っていますが、
管理人さんは、前田までが第1章で まだ第2章は始まっていない。 今は過渡期という認識ですね。 大島、指原は繋ぎの役目を担っていると、、、、わかる気もします。
第1章の残党であり単騎で戦う最強戦士指原が卒業した後に 新たなAKBの第2章が始まる 今はそんな時。 各章は直接つながってなくてもいいんですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、指原さんは「そこ」にはいないと考えます。
AKBというムーブメントは、前田さんを担いで頂点を極めた、少なくとも「物語」としてはそのように語り継がれ認識されるわけです。そんなフィクションという意味での「物語」に、前田さんが去った後のAKBという組織は、そしてメンバーは、そしてもちろんヲタさんもファンも、ファンではない人ですら、意識的であれ無意識であれ捕らわれ続け、逃れることができない。
とりわけメンバーは、かつての前田さんの幻影との関係性を多かれ少なかれ引きずってしまうことになる。けれどもそれでは前に進むことができない。前田さんの事実としての偉大さはさておき、フィクションはいくらでも肥大化できるので、前田さんの幻影に立ち向かうことは、事実上不可能になってしまう。
だから「前田AKBからの脱学習」が求められることになる。必要なのは前田さんという存在を、フィクションを含めて過去のものとして埋葬すること。その上で改めて動的組織であるリアルAKBの現在、そして未来に向き合い、新たな平衡点を模索すること。つまりは再学習。
旧神セブンこそがそんな前田幻想の実態とも言えるわけで、彼女らのその後を見れば、そんな「現実」に真摯に向き合ったメンバーもいれば、そうでないメンバーもいる。板野さんの「時が来た」という言葉は、そんな文脈で再定義できることになる。大島さんの前田さんとの「同棲」もまた既述のごとく、自身の立ち位置の確認、と言うか「気づき」と、そこからの「悟り」へとたどり着くためのあがきのようなものだった。
一方で、旧神セブンの「外部」からこの前田AKBという言わば「幻肢」に対して、敢然と立ち向かったのが島崎さんであったように、少なくとも私には見えます。情報としては多くはないんで見えにくいけど、前田さんの卒業コンサートの舞台裏で見せた「決意」の表情と言葉、その後のイレギュラーとも言える強い個性の発露、言動、行動。リクアワコメンタリー等で漏れ伝わって来る「知性」、自分は繋ぎで良いという趣旨の発言。諸々。
では指原さんの立ち位置はどこなのか。指原さんもまた島崎さん同様、旧神セブンの「外部」です。島崎さんはそれでも果敢にAKBの、そして旧神セブンの亡霊に対するインサイダーとして振る舞うという、求道者の如き苦難の道を敢えて選択したかのように見えますが、指原さんは違った。
これは当初からと言えると思うので、その資質は早くから秋元氏の目にとまっていたとみて良いのでしょう。前田AKBという枠組みの、間違いなく内側から頭角を現しながら、指原さんは一貫してアウトサイダーの道を歩むことになった。否、より正確には、間違いなくAKBメンバーというインサイダーでありながらも、同時にアウトサイダーとしても振る舞うという、インサイダーとアウトサイダーという対立軸の外、枠組みの外へと跳躍してみせた。
そういう視点から見れば、スキャンダルすら枠組みの外の人という面目躍如ということになってしまう。HKTへの移籍もそうですし、HKTというAKBの「外部」にして、そこでの役割もまた支配人という「外部」。この枠組みの外を志向するというのは、正に秋元イズムの権化にして「予定調和を壊す」の実践ということになるでしょう。
話がとっちらかってしまってるので、このあたりで中途半端に収束させてしまいますが、つまりは指原さんは「繋ぎの役目」どころではないと考えます。私はこれまで指原さんを、「ひとりAKB」、「秋元氏のデーモン」、「空前の怪物」等々評してますが、そこに誇張の意図はありません。その言葉の通りに認識しています。
ちょうど「トットてれび」を見終わったところなんで、そっちに引っ張られてるというのはあるんでしょうけど、強いて言い募るなら、指原さんに比肩できる存在は、時代背景とかすっ飛ばして黒柳徹子氏あたりになるんじゃないかとか思います。
以下は過去ログ紹介ですが、よろしければ。
指原莉乃とは何ものなのか
http://blog.goo.ne.jp/ichthyophagi/e/1b70746dd72ac28e7f3bf106af499915
論争「ミリオンがいっぱい~AKB48ミュージックビデオ集~」完全版
http://blog.goo.ne.jp/ichthyophagi/e/bc1605d751089e37c4139d783c96ca01
面白い見解だと思います。
総監督を引き継ぐ横山は 当然 たかみなまでが第1章で、自分が第2章を責任もって引っ張らないといけないという使命感。 その意識で正しい、そうじゃないといけない。
1期生こじはるは、当初の目標東京ドーム・エース前田の卒業までが第1章で こじはるに第2章はなく この方は いい意味で? こじはるだけに許される存在様式として その後のAKB活動を流しているww
指ヲタである私たちは さしこ政権が前田・大島の第1章に次ぐ第2章だと思っていますが、
管理人さんは、前田までが第1章で まだ第2章は始まっていない。 今は過渡期という認識ですね。 大島、指原は繋ぎの役目を担っていると、、、、わかる気もします。
第1章の残党であり単騎で戦う最強戦士指原が卒業した後に 新たなAKBの第2章が始まる 今はそんな時。 各章は直接つながってなくてもいいんですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、指原さんは「そこ」にはいないと考えます。
AKBというムーブメントは、前田さんを担いで頂点を極めた、少なくとも「物語」としてはそのように語り継がれ認識されるわけです。そんなフィクションという意味での「物語」に、前田さんが去った後のAKBという組織は、そしてメンバーは、そしてもちろんヲタさんもファンも、ファンではない人ですら、意識的であれ無意識であれ捕らわれ続け、逃れることができない。
とりわけメンバーは、かつての前田さんの幻影との関係性を多かれ少なかれ引きずってしまうことになる。けれどもそれでは前に進むことができない。前田さんの事実としての偉大さはさておき、フィクションはいくらでも肥大化できるので、前田さんの幻影に立ち向かうことは、事実上不可能になってしまう。
だから「前田AKBからの脱学習」が求められることになる。必要なのは前田さんという存在を、フィクションを含めて過去のものとして埋葬すること。その上で改めて動的組織であるリアルAKBの現在、そして未来に向き合い、新たな平衡点を模索すること。つまりは再学習。
旧神セブンこそがそんな前田幻想の実態とも言えるわけで、彼女らのその後を見れば、そんな「現実」に真摯に向き合ったメンバーもいれば、そうでないメンバーもいる。板野さんの「時が来た」という言葉は、そんな文脈で再定義できることになる。大島さんの前田さんとの「同棲」もまた既述のごとく、自身の立ち位置の確認、と言うか「気づき」と、そこからの「悟り」へとたどり着くためのあがきのようなものだった。
一方で、旧神セブンの「外部」からこの前田AKBという言わば「幻肢」に対して、敢然と立ち向かったのが島崎さんであったように、少なくとも私には見えます。情報としては多くはないんで見えにくいけど、前田さんの卒業コンサートの舞台裏で見せた「決意」の表情と言葉、その後のイレギュラーとも言える強い個性の発露、言動、行動。リクアワコメンタリー等で漏れ伝わって来る「知性」、自分は繋ぎで良いという趣旨の発言。諸々。
では指原さんの立ち位置はどこなのか。指原さんもまた島崎さん同様、旧神セブンの「外部」です。島崎さんはそれでも果敢にAKBの、そして旧神セブンの亡霊に対するインサイダーとして振る舞うという、求道者の如き苦難の道を敢えて選択したかのように見えますが、指原さんは違った。
これは当初からと言えると思うので、その資質は早くから秋元氏の目にとまっていたとみて良いのでしょう。前田AKBという枠組みの、間違いなく内側から頭角を現しながら、指原さんは一貫してアウトサイダーの道を歩むことになった。否、より正確には、間違いなくAKBメンバーというインサイダーでありながらも、同時にアウトサイダーとしても振る舞うという、インサイダーとアウトサイダーという対立軸の外、枠組みの外へと跳躍してみせた。
そういう視点から見れば、スキャンダルすら枠組みの外の人という面目躍如ということになってしまう。HKTへの移籍もそうですし、HKTというAKBの「外部」にして、そこでの役割もまた支配人という「外部」。この枠組みの外を志向するというのは、正に秋元イズムの権化にして「予定調和を壊す」の実践ということになるでしょう。
話がとっちらかってしまってるので、このあたりで中途半端に収束させてしまいますが、つまりは指原さんは「繋ぎの役目」どころではないと考えます。私はこれまで指原さんを、「ひとりAKB」、「秋元氏のデーモン」、「空前の怪物」等々評してますが、そこに誇張の意図はありません。その言葉の通りに認識しています。
ちょうど「トットてれび」を見終わったところなんで、そっちに引っ張られてるというのはあるんでしょうけど、強いて言い募るなら、指原さんに比肩できる存在は、時代背景とかすっ飛ばして黒柳徹子氏あたりになるんじゃないかとか思います。
以下は過去ログ紹介ですが、よろしければ。
指原莉乃とは何ものなのか
http://blog.goo.ne.jp/ichthyophagi/e/1b70746dd72ac28e7f3bf106af499915
論争「ミリオンがいっぱい~AKB48ミュージックビデオ集~」完全版
http://blog.goo.ne.jp/ichthyophagi/e/bc1605d751089e37c4139d783c96ca01
気になった点ですが、
>HKTというAKBの「外部」にして、
姉妹グループってAKBの外部という認識なんですか?
というか、脱前田学習って狭義のAKB48で進んでいる事として語ってるのでしょうか?
面白い例えだと思いましたが、黒柳徹子はテレビ創成期から芸能界に息づいてはいるものの時代の象徴ではありません。黒柳さんが亡くなられたときは、昭和の終わりを感じることはないでしょう。 おそらく、黒柳徹子と言う時代を超越したモンスターの終わりと認識します。
どちらが優れた存在かと言う比較は意味がないですが、指原莉乃というメンバーは、時代のスターではなく時代を超えてきたモンスターなのですか。
私は指ヲタなので、スター指原の卒業がAKBgの一つの終焉・分岐点(第2章の終わり、第3章の始まり)を感じ取るのですが、そのような意見もわからなくはないです。
ただし、それだと 若干不安になりますね。昭和はスターが存在する「時代」でしたが、今はスターが存在しえない時代です。
AKBgもスターの存在しない時代に入るという意味にとらえます。第2章は永遠に始まらない あるいは だれも主人公のいない章なのかも ですね。