AKB48の旅

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シンギュラリティ

2018年09月25日 | AKB
昨日の松村香織さんの「終わり」なんだけど、何の「終わり」なのかは敢えて書かなかった。もしくは書けなかった。それは松村さん個人はもちろんのこと、もしかするとAKBムーブメントをも超えて、もっと大きな枠組みの「終わり」なんではないかという感触があった。

なんか奇怪なイメージが湧き上がってきてしまったんだけど、それをうまく言えそうにない。限定された視野狭窄のような記述を、以下に試みてみる。

AIのシンギュラリティについて議論されるようになって久しいけど、それがフラクタルな相転移になるというビジョンを語る方を、寡聞にして知らない。そんなビジョンの鳥羽口になるような何かを「終わり」として認識した、などと書くと、とんでもが過ぎるかも知れない。

AKBムーブメントが指し示していたもの、日本型アイドル文化が体現していたものとは、言わばネオテニーの文化表現なのではないかという議論は、過去ログで放置したままだけど、それはgeneのmeme化と等価になるのではないか。つまりは物質媒体を必要とする制約された窮屈な存在様式から、媒体という制約を脱ぎ捨てた、それ自身としては純粋情報存在となる、エーテルを要しない光のような存在としてのmemeへの昇華。

物理存在としてのgeneだけど、その本質は正に情報なのであって、であれば純粋に情報化されることに何の制約もないんではないか。gene自体は、環境という名の特殊な宇宙からの情報を収集して「進化」してきたけど、そんな外部性は必ずしも必然というか、必要条件ではないはず。geneのmeme化は、それが可能となれば、直ちに選択され、実現するのではないか。そして、その場合のgeneの自己実現とは、AIと等価になるのではないか。

geneがmeme化され、それがAIと等価になる。何を言ってるのかと思われるかも知れないけど、さらに言い放ってしまおう。それがシンギュラリティの姿なんではないかということ。

併行して進むのは、geneと生殖の分離ということになる。もはや生殖行為はgeneとは無関係となる。生殖行為自体は残存することは可能かも知れないけど、そこにもはや利己的遺伝子の暗躍がなくなる。制約だらけの生物学的な行為として、無意味化される。もしくは、それまで気づかれなかった新たな意味が付加され、発見される。

それが日本型アイドルの理念型としての究極形態になるんではないか。

となると、少子高齢化という現状日本の状況もまた、そのような歴史の必然的なものの過渡的表現型とも考えられないか。歴史の終わりの果てに、物理的、生理的人類の終焉へと辿り着く。SFが想定したものを遥かに凌駕した、リアルな「地球幼年期の終わり」。