AKB48の旅

AKB48の旅

参加と退場の自由

2018年06月22日 | AKB
須田亜香里が突き付けた現実と決意、世間は「48グループに興味が無い」:総選挙

それは世間の皆さんは、私達が思っている以上に、48グループに興味が無いということです。こんなにも皆さんが熱く応援してくれるのに、こんな私でも見てくれる、心の清い人達がいるのに、なんでこんなにも伝わらないんだろうって、もどかしくて、いい順位だっていって番組の方に興味を持ってもらっても、その中ではやっぱり「あなたは何ができますか? 何が伝えられますか?」っていうことを常に問いかけられ、求められます。その連続で、しかも私の発言上のこのグループでのストーリーは10秒のダイジェストでまとめられ、本当にまだまだだなって思います。

こういう議論ってけっこう耳にするし、「村内」っていう専門用語すらも語られてたりする(私も使ってる)。けれどもそれって典型的な勘違いというか、あんまり言いたくないけど、時代遅れな感を否めない。価値観の多様化なんて言葉も手垢がつきすぎてるけど、そんな概念のさらに先に、私たちは既にして立ってるんだろうと思う。

民主主義社会にして資本主義社会であることを前提に、自由と平等という価値観が確立される過程において、最も重要な個人の権利とは、あらゆる場における参加と退場の自由なんだと考えられる。ここで言う「自由」とは、個人の意思あるいは欲望と、そのよって立つ条件、ルールの公平性、透明性ということ。

AKBムーブメントは、ある意味もっとも不透明で不公正と考えられていた「芸能」の分野において、いち早く公平性、透明性を担保しようとした。そんな方向性のパイオニアでもあった。だからこそ、参加と退場の自由が、最も確立されてる場となってると言えるんじゃないかと思う。

個人としての参加と退場の自由が保証されるということは、そこに集団的な強制力が働く余地がない、あるいは思想信条とかイデオロギーとかの介在の余地がない、少なくともその類いの不自由性から最も遠いところにあるということでもある。さらにはより世俗的に、扇動とか扇情とかからも最も距離を置くということになり、寛容と多様性という価値観とも直結することになると思われる。

逆に言うなら、マスコミというものの存在様式と一線を画することになるのであり、事実、AKBムーブメントの根幹は、一貫してマスコミから距離を置いてきたと言えるのではないか。であればこそ、この須田さんの語るところの「10秒のダイジェスト」は、むしろ誇っても良いことなんではないか。そんな「消費」の欲望(あるいは暴力)の中にあって、それでも須田さんはそこにいる。

この流れは、恐らくは時代のトレンドなんであって、とどまることはないんじゃないか。既述の大西さんの「革新」もまた、そんな大枠の中にある。