貧々自適

仕事のかたわらデジカメを構えたり
季節のうつろいや人の優しさに触れ感激する
そんな貧乏オヤジのつれづれ帳です

ふるさとは今…

2014-05-27 23:47:54 | 想い出話
今から65年前の昭和24年、私は兵庫県尼崎市築地で産声をあげました。
現在と違い、自宅で産婆さんがとりあげてくれたのは言うまでもありません。
聞いた話では、その前年に神戸市灘区から引っ越し、祖父が商売※を始めたらしい。
なので11年前に死んだ姉は、その神戸の家で生まれました。
 ※石炭の販売、私が小学校に入ったころにはやめて、零細運送店に

住んでいた家は木造2階建、1階に事務所があり中庭をはさんで平屋の6畳間と土間の台所、
裏には大きな井戸、風呂と便所がありました。
2階は8畳間と6畳の2部屋に物干し台がありましたが、なにせ子どものころの記憶、
部屋の大きさは?がつきます。(子どもの目には広く感じる)

その家には、私が中学1年の夏休みまで住み、祖父の死をきっかけに廃業、引っ越しました。
以前書いた隣家のおばさんから聞いた話では、私らが引っ越した後2階建部分を取り壊し、
地盤沈下で道路より低くなっていたのをかさ上げしたらしい。
平屋部分は残っていたらしいのですが、空き家状態だった家屋が突然崩れたとか…。

で、母を連れて行って以来5年ぶりに「ふるさと」を訪ねてきました。
といっても、行ったのはこれまた家内の運転手で伊丹に行った3月25日。
直前追突事故に遭った家内に「往復400キロの運転はダメ!」って(笑)

以前の記事でも書きましたが、阪神・淡路大震災で生家のあった街は壊滅状態となり、
区画整理がされて「昔の面影」はほとんど残っていません。

生家のあったあたりから西方向、うっすら写っているのが「ふるさとの山・六甲連山」。
ちなみに、この橋が小学校のころあったら通学がラクだったのにィ!
(学校まで一直線5分で行ける、当時は遠回りで15分以上かかった)

そや、廃線跡は?と思い出して「戎橋」たもとへ。
↑の写真の右岸が旧尼崎港駅のヤードで、住友金属への引き込み線が戎橋のそばを走ってました。
かすかな記憶をたどって、たしか踏切がこのへん…と駅のあった方を見ると「鉄橋の跡」が。

そして道路の反対側には、ゆるやかな左カーブを描いていた線路の跡が…

現在は、遊歩道&緑地になっています。

国鉄尼崎港線(福知山線支線)は、昭和59年に廃線。
長男が生まれた翌年で仕事も忙しく、全く知りませんでした。

過去ログ:再会果たすⅡ海抜0m地帯

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