貧々自適

仕事のかたわらデジカメを構えたり
季節のうつろいや人の優しさに触れ感激する
そんな貧乏オヤジのつれづれ帳です

古い入場券

2016-10-10 02:51:20 | 想い出話
また「なんでこんなところに?」という古い入場券が出てきました。
「大阪国際空港・送迎デッキ入場券」で、ウラの発券日付スタンプによると【49.11.27】。
49年11月27日なら、私の生まれた日の前日…んなわきゃない
もちろん「昭和49年」の神戸時代のとき、送迎デッキというからには、誰かの見送りか出迎えで、
妙なところが几帳面な私のこととて、メモを書いてました。
そこには「姉夫婦の出迎え」とあり、おそらく新婚旅行から帰って来た日のことじゃないか?と。

姉は13年前、55歳のときガンで死にましたが今月4日が誕生日、生きていれば69歳になっていて、
「来年は70じゃが…(広島弁)」と苦笑いする姿が想像されます。
でも幸せなことに初孫(今年、中3か高1)の歩く姿を目に焼き付けて旅立てました。
オヤジ(60歳で死んだ)といい、姉といい、「もうちょっと生きていて欲しかった…」。

二男の来月の結婚式・披露宴に義兄も招待、出席してくれるとのことなので、を見せて
姉の想い出を妹夫婦たちと偲ぶひとときを持ちたいな、って。
義兄は私らの結婚式の日、前の年に死んだオヤジの代わりに「親族代表の挨拶」をしてくれました。

秋という季節は、そんな感傷的な気持ちにさせる季節です。


うどんの自販機

2016-03-08 14:27:56 | 想い出話
ネットのニュースにこんなのが秋田港の隠れた名所 うどんそば自販機引退へ
仙台の新聞「河北新報」の記事です。
ゆうべ帰宅した二男が「おとん、↑知っとん?」、スマホでも流れたらしい。
オヤジがどんな番組を好んで視ているか知っていて、試しやがったなぁ?(笑)
『ドキュメント72時間でとりあげられた、秋田港近くにあるうどんの自販機がある店のことか?』
とドヤ顔で返事したのは言うまでもありません。
放映直後から反響が大きく、昨年末の特番でも再放送されました。

で、'70年代に登場したらしいこの自販機、私もお世話になったことがあります。
それは高知時代、会社の近くの道路わきに屋根付き(プレハブだったか)の自販機コーナーがあり、
↑の外観に見覚えがある自販機もありました。
残業などで遅くなり(当時はコンビニなんてなかった)、晩メシに困ったとき何度か利用。

「ドキュメント72時間」の中では、猛吹雪の中でも食べにくるお客さんや夜勤明けの人など
それぞれの、なんらかの「思い」とつながる存在だったようです。
庇からぶら下げた七味や、故障して丼からあふれるつゆのシーンが思い出されます。

古い自動販売機といえば、会社の寮やボウリング場にあった「コカ・コーラの瓶が出てくる自販機」、
これは若かったころの遠~い想い出につながります。

JS-8

2016-03-02 01:31:39 | 想い出話
何のコード?と疑問にお思いでしょうが、しばらくお付き合いのほどを
「JS-8」というのは、ビクターのスピーカーの型番で コレ
単品でも買えますが、組み合わせコンポの中級ランク用(売価15万円くらい?)のスピーカーで、
↑のサイトにあるように、昭和49年ごろ(私の神戸時代)の商品です。
なんでそんな古い商品のことをネタにしたのか?というと、今でも「現役」で聴けるから。
といってもタダではムリ、500円近くかかります(笑)
それはウチから近い屋島の麓「四国村」の中の喫茶店「異人館」にあり、
20年以上前に見つけて「おぉ、懐かしい…」。

先日、二男と遊びに来てたフィアンセ※を連れて、お昼に四国村のうどん屋「わら家」へ。
 ※これからココでは「サーちゃん」と命名
「わら家」名物『たらいうどん』の小(約3玉とか)×2を3人でペロリ。
サーちゃん、小柄なのに胃袋は「Lサイズ」か?(笑)
せっかくなので、「異人館のアイスクリームがおいしいんだよ」と連れて行ったら、
おそらく製造後40年以上経つはずですが「まだ現役」で。
 ※神奈川県大和市にあった工場で生産したはず

超高級品じゃないけど、妙にピアノ曲との「相性」がよかったスピーカーでした。
昔ながらの表現でいうと、「明るい音」を出すなぁ…って。
ちなみに、私が持ってたのは「SX-3」、これは万能タイプでしたね。

阪急三宮駅

2016-01-08 01:14:17 | 想い出話

冒頭のイラストは、甥っ子から去年届いた絵葉書のもの。
「市電の走る風景」とあり、妹からも別の機会に同シリーズの葉書が届いたので、
何枚かのセットで売られているのでしょう。

説明書きには「阪急三宮山側(昭和43年)」とあり、私にとっては特別な年の風景。
何度かブログにも書きましたが、この年高校を卒業して横浜に就職、社会人一年生になり、
暮れ(三億円事件の直後)には病気になって一年間の入院生活が始まりました。 昭和43年
この年、神戸高速鉄道が開通、阪急・阪神・山陽電鉄の相互乗り入れが開始され、
梅田発の神戸線特急が山陽電鉄・須磨浦公園まで運転されていました。
復職して兵庫区にあった営業所に通勤した最初の2年ほど、阪急⇔国鉄の乗り換え駅で利用。
駅ビル内にあった映画館(現在もあるはない)にも何度か行きました。
オヤジも退職前の一時期この駅に勤務していました。

で、いくつか解説を。
①市電前面に【7】とあるのは、神戸税関から市役所前~阪神三宮(そごう前)~阪急三宮を経由し
 加納町方面※への路線のはず。 ※阪神・淡路大震災のとき横倒しになったビルの前の通り
 詳しくは憶えていませんが、加納町から王子動物園前を経由して石屋川までだったかな?
 通称「国体道路」「山手幹線」を通っていたのではないか?と。

②半円形をした高架線の駅開口部、向かって右隣には同じ形をしたガラス窓があって、
 いつか複々線になるのかな?と思っていましたが、ナゾのまま(笑)
 ちなみに、駅は三線四面のホームで中央の線路は各駅停車の折り返しで使用。
 中央二面のホームは、神戸高速線直通電車(阪急線内は特急になる)から各停への乗り換えと
 梅田方面からの電車から降りる大量のお客をさばく(両側の扉が開く)のに使用。
 
③高架橋げた横面の「阪急電車のりば」、手の形をした表示は「阪急の専売特許!」(笑)
 かの小林一三氏(NHKでドラマ化)が、味気ない【← →】じゃなく、手で指し示す表示を考案したと
 聞いたことがありますが、真偽のほどは?です。(私が子供のころ、駅名標のほとんどはコレ)
 イラストにある後方の屋根は、国鉄(現JR西日本)三ノ宮駅ホーム(上り線)のです。
 国鉄(JR)三ノ宮駅西口と阪急三宮駅東口は連絡通路でつながっています。

お気付きの通り、同じ「さんのみや」でも阪急・阪神は「三宮」、国鉄(JRも)だけは「三ノ宮」。
なぜそうなったかは分りませんが、地名の由来の「三宮神社」もそうだし地下鉄も三宮です。

震災後、イラストの旧駅ビルは建て替えられ、新聞会館壁面にあった山一証券の富士山の広告とならぶ
「さんのみやのシンボル」はなくなってしまいました。
師匠のブログで、国鉄三ノ宮駅のホームから撮った阪急電車(確か1200形)と駅の写真を
以前見た記憶があるのですが、工事中なのか見つけられませんでした。
ついでながら、ライバル阪神電車(現在は経営統合)の三宮駅は地下(そごうに隣接)にあり、
昔から終点は元町だったし、「終着駅」の風情はありません。

一枚のはがきから、いろいろ思い出しました…

【おまけ】
いつの間にか、ボイジャー1号の太陽からの距離が200億キロを突破してました。
 NASAの公式サイト

今朝のテレビで

2015-12-04 12:55:28 | 想い出話
毎朝家内が出勤前に朝ごはんを食べながら視ているBSの朝ドラ。
(今は「どんど晴れ」の再放送~「あさが来た」)
それが終わり、出かける支度を始めるきっかけが以前も書いた「にっぽん縦断 こころ旅」。
今日の冒頭のお手紙紹介シーンは、鹿児島市内の公園(たぶん仙巌園)から望む錦江湾越しの桜島。
鹿児島へは3回、高校の修学旅行(仙巌園、別名磯庭園はこのとき行った)と神戸時代に2回。
神戸時代のは「肥薩線乗車」と元同僚の「夜行とんぼがえり見舞い」。
いずれも40年以上前のことで、今年はムリですが来年こそ…。
九州新幹線を使えば高松から4時間ちょっとだし、義兄の提案した「きょうだい旅行」でもいいな。

で、番組は鹿児島から霧島の目的地までのうち、霧島神宮まで特急電車に乗るという荒ワザ(笑)
その特急というのが「きりしま」、前身は「にちりん」(博多・小倉~大分・宮崎・西鹿児島)です。
日豊線の特急「にちりん」には、485系とJR九州の新型ハイパーサルーン783系が運用されてました。
映った「きりしま」はその783系で、私も一度だけ乗ったことがあります。

それは20年あまり前、まだ元気だった母を九州旅行に連れて行ったとき。
神戸から関西汽船の別府航路に乗船した母と、高松港から乗船した私ら家族が合流。
翌朝別府に着き、別府⇒博多を783系「ハイパーにちりん」に乗車。
流線型の先頭車まで車内を歩き、展望も楽しみました。

博多でレンタカーを借りてハウステンボスへ行き、嬉野温泉にあった厚生年金の宿に泊まり、
博多へ戻って新幹線(100系・2階建て)で帰ってきました。
2階の食堂車でカレーライスを食べたのが今となっては懐かしい想い出です。


【おまけ】
昨日、雨の予報だったので仕事は休み、例によってゴロゴロ
孫太郎が来る(娘がなぎなたの練習に屋島まで来る)のでフロのお湯を新しくして…。
と思ったら、服を脱がそうと風呂場の前まで連れていくと急に「わ~ん」。
なだめても、すかしてもダメ、娘は「眠いだけかも…」。
何か不安なことでもあったのかな?、「じいじの楽しみ」が実現せずガックリ
言葉が達者になり、しっかりしてきたように見えてもそこは2歳児。
大人では気付かない、微妙な「感情の乱れ」があったのではないか?、と。
帰るときも車まで娘から私が受け取ってだっこすると半ベソ、何があったのか…。

浜西のおばあちゃん

2014-07-05 11:32:18 | 想い出話
「誰?」って言われそうですが、しばらくお付き合いを。
尼崎時代や姉のことと一緒に、ある「おばあちゃん」の想い出が…。

およそ55年前、ウチの家はいろいろガタガタしていて、祖父とオヤジの折り合いが悪く、
祖父の商売もうまくいっていないようでした。
オヤジはサラリーマンとして家を支えるつもりだったので、家業を継ぐつもりはなく、
明治生まれの頑固広島県民だった祖父は、何かにつけ腹立たしかったのでしょう。

そんな尼崎時代の日々の中、ウチに半年~一年サイクルで来てくれる3人の女性がいました。
一人目は去年母方の祖父母の五十回忌で再会した従姉「サチコ姉ちゃん」で、当時20代前半だったかな?
父方の祖父と母方の祖母は兄妹ですから、ウチの親からすると直系の姪になるし、
子どものころ不遇※だったので、ウチの親たちも気遣っていたようです。
 ※両親が離婚、母親が早く亡くなり祖父母に育てられた
神戸で働いていたので休みの日に日帰りや泊りがけで来てくれていました。
特に病弱な姉のことを妹のようにかわいがってくれた記憶があります。

二人目は、5年前母を連れて知人を訪ねたとき再会した枚方在住の「ヒデコ姉ちゃん」。
ウチの家族とのいきさつは前回書いたので省きますが、やはり姉にやさしくしてくれ
結婚してからもご主人と一緒に来てくれていました。

そしてもう一人が当時(私と姉が小学生)70歳前の「浜西のおばあちゃん」。
ウチとの関係(親戚ではない)は、今となっては分からないし、知っている人もいないかも…
ただ「小柄でやさしい」姿は今も心の片隅に残っています。
どういういきさつでウチに来るようになり、「おさんどん」までしてくれていたのか不明ですが、
神戸の息子さんやお嫁さんとの折り合いが悪かったフシもあります。
特に姉が発作で寝込んだりしたときは一ヵ月くらいいてくれた記憶があります。
寝たきりだった祖母が死んだころですが、妹二人は幼少で手がかかり手伝ってくれたのでしょう。
ものごころついた頃から寝たきりだった祖母のピンチヒッターみたいな感覚だったかも。
そのおばあちゃんの楽しみは「タバコ」、キセルで「ききょう」を吸ってたっけ(笑)

神戸時代、まだ健在だったおばあちゃんを母や姉と訪ねた記憶があります。
長田の山の上にあった息子さんの家で、さらに一回り小さくなった姿を見たのが最後。
息子さんはウチにいい印象を持っていなかったのか、葬式の通知も来なかったような…

他の人との人間関係はどうあれ、私らにとって「やさしいおばあちゃん」だったのは事実。
そんな記憶を書きとどめることも私の役目です。

【おまけ】
・おかげさまで腰痛もほぼ回復、一昨日から仕事にもどりました。
・W杯、予想が早くもはずれブラジルが勝ち抜け、エースの負傷欠場でチームがまとまり
 優勝の目が出てきました。南米決戦かぁ?

お灸

2014-06-18 09:27:41 | 想い出話
2年足らず前に記事にしたNHK-BSの「にっぽん縦断 こころ旅」。
今また放映していて、今週は山形県を旅してます。
今朝、視聴者からの投稿で「お灸」の話が出て唐突に思い出した話を。

11年前に死んだ2歳上の姉が、小児喘息で苦しんでいた話は何度か書きました。
尼崎⇒福崎へ引っ越したきっかけの一つだったことは、生前のオヤジから聞いていましたが、
生活の大変さ、長時間通勤を覚悟せざるを得ないほど、尼崎の大気汚染はひどかった。
公立の中学では、一度発作が起きると最低一週間は休むことになり、たいへんだろうと
姉は芦屋の私立中学へ通っていました。(3年の夏休みまで)

姉は幼いころから特に秋になると発作が起き、運動会には出たことがありませんでした。
かかっていたお医者さんから「この子は、二十歳まで生きられるかどうか…」とまで言われ
あらゆる「民間療法」も試したのを憶えています。
胎盤埋め込み・整体・○○を飲ませるなど、果ては新興宗教まで…。
その中に「お灸療法」があり、背中の気管支の真上にお灸をすえるというのでした。
確か須磨(神戸市西部)の方にその治療院があり、小学校低学年のころだったか
三宮から市電に乗って一緒に行った記憶がうっすら残っています。

そんな思いまでして苦しんだ姉も高校進学後は元気になって、運動会にも出られるようになり
就職・結婚・出産という普通の人生を歩むことができました。
昭和40年ころ、発作を抑える薬(エフェドリンといった)を服用、劇的な効果があったらしい。
姉の背中に残った小判状の大きな「やいと」(大阪弁でお灸のこと)の跡を憶えているのが
一人減り、二人減り、姉の家族以外ではごくわずか。
そんな想い出を書き記して残してやれるのは私だけです。

【おまけ・その1】
昨日夕方、帰宅した家内と買い物に出たついでに孫太郎宅へ(笑)。
高松駅を過ぎたところで信号待ちをしていたら前方から救急車が接近。
すると右の道路から路線バスが交差点内へ進入!
思わず『こらぁ~、青(信号)でも入ったらアカンやろ!』と叫んでました
よっぽどバス会社へナンバー控えて通報してやろうかと思ったくらい。
もちろん、乗客のひとりだったら運転手に文句言ってます。

【おまけ・その2】
ワールドカップ、緒戦は残念な結果に終わりましたが、その横に大事な記事(朝日)が。
首相が「同胞を避難・輸送中の米軍艦船を守れない!」と大ミエをきった「集団的自衛権」、
その根底の論議(日本の優先度が低い)がおざなりになっている、ともいえます。
第一、もし「朝鮮半島で有事」となったとき、同胞救出・避難のための民間機・船舶に対して
自衛隊機や艦船を派遣し警護することに『憲法違反だ!』と騒ぐバカがどこにいる?
そんな(アテにならない米軍の警護)ことより、世界中のどこへでも同胞を救出に行ける「部隊」を作れよ。
大多数の自衛隊員の「士気の高さ」は、東日本大震災で証明済み。
国連や赤十字のマークを付け、日の丸を背負って飛んで行くというのは「軍隊の派遣」ではない。
それこそが「自衛隊」、そんな飛行機・艦船を襲撃するなんて国や組織は世界中から相手にされません。

ふるさとは今…

2014-05-27 23:47:54 | 想い出話
今から65年前の昭和24年、私は兵庫県尼崎市築地で産声をあげました。
現在と違い、自宅で産婆さんがとりあげてくれたのは言うまでもありません。
聞いた話では、その前年に神戸市灘区から引っ越し、祖父が商売※を始めたらしい。
なので11年前に死んだ姉は、その神戸の家で生まれました。
 ※石炭の販売、私が小学校に入ったころにはやめて、零細運送店に

住んでいた家は木造2階建、1階に事務所があり中庭をはさんで平屋の6畳間と土間の台所、
裏には大きな井戸、風呂と便所がありました。
2階は8畳間と6畳の2部屋に物干し台がありましたが、なにせ子どものころの記憶、
部屋の大きさは?がつきます。(子どもの目には広く感じる)

その家には、私が中学1年の夏休みまで住み、祖父の死をきっかけに廃業、引っ越しました。
以前書いた隣家のおばさんから聞いた話では、私らが引っ越した後2階建部分を取り壊し、
地盤沈下で道路より低くなっていたのをかさ上げしたらしい。
平屋部分は残っていたらしいのですが、空き家状態だった家屋が突然崩れたとか…。

で、母を連れて行って以来5年ぶりに「ふるさと」を訪ねてきました。
といっても、行ったのはこれまた家内の運転手で伊丹に行った3月25日。
直前追突事故に遭った家内に「往復400キロの運転はダメ!」って(笑)

以前の記事でも書きましたが、阪神・淡路大震災で生家のあった街は壊滅状態となり、
区画整理がされて「昔の面影」はほとんど残っていません。

生家のあったあたりから西方向、うっすら写っているのが「ふるさとの山・六甲連山」。
ちなみに、この橋が小学校のころあったら通学がラクだったのにィ!
(学校まで一直線5分で行ける、当時は遠回りで15分以上かかった)

そや、廃線跡は?と思い出して「戎橋」たもとへ。
↑の写真の右岸が旧尼崎港駅のヤードで、住友金属への引き込み線が戎橋のそばを走ってました。
かすかな記憶をたどって、たしか踏切がこのへん…と駅のあった方を見ると「鉄橋の跡」が。

そして道路の反対側には、ゆるやかな左カーブを描いていた線路の跡が…

現在は、遊歩道&緑地になっています。

国鉄尼崎港線(福知山線支線)は、昭和59年に廃線。
長男が生まれた翌年で仕事も忙しく、全く知りませんでした。

過去ログ:再会果たすⅡ海抜0m地帯

想い出の味

2013-04-29 02:13:31 | 想い出話
これまた「大阪・難波へ」の続きです
中1まで住んでいた尼崎時代、母に連れられてまとまった買い物によく行ったのは、
通称「三和(商店街)※」という阪神尼崎駅~出屋敷駅まで続く商店街。
 ※正式には「尼崎中央・三和・出屋敷商店街」というそうです
阪神尼崎駅まで家から歩いて20分くらいだったかな?
母は姉と私を引っ張るようにスタスタ歩き、我々は必死で付いて行った記憶が…
母は自転車に乗れなかったので仕方なかったとはいえ、あまりいい想い出ではないけど
駅までの途中にあった大衆食堂でうどんや、夏場ならアイスキャンデーを楽しみに(笑)
この大衆食堂、屋号はラーメン屋みたいでしたがアイスキャンデーは自家製でした。
店に入ると一角に「アイスキャンデー製造マシーン」があって、コンプレッサーの音がうるさかったっけ。
買ってもらった記憶はほとんどないけど、当時まだ珍しかったソフトクリームもありました。

商店街の店の記憶はほとんどないのですが、憶えているのは2軒。
一軒はかなり出屋敷駅に近かった肉屋さんで、看板娘?(子どもの私から見るとオバサン)の
「客あしらいと手際のよさ」の記憶は50年以上経った今でも。
(地図検索するとそれらしい店が…)
もう一軒は、蒲鉾の老舗「枡千」という店。
先年亡くなった隣家のおばさんが、神戸時代の母を訪ねて来てくれた時の手土産だったとか。
先日、BSフジで阪神・近鉄相互乗り入れ開始直後の沿線紹介番組(再放送)が放映され、
この店も紹介されました。
阪神尼崎駅に車を置いて、の「もう一つの理由」がコレ。
商店街を歩いておよそ55年ぶりに蒲鉾とてんぷらをGET!
↑のサイトにあるように、蒲鉾の安い方でも650円!、てんぷらは1枚180円もするけど
懐かしい味に高いも安いもありません。
てんぷらは姉が好きだった「きくらげ天」をチョイス、妹と分け合って姉を偲びました。




横浜時代

2012-11-20 07:58:48 | 想い出話
ヘンな夢をみて目が覚め、いつもなら高イビキの時間帯に起動(笑)
もっとも朝が早い二男は、起きだして出勤(6時すぎ)して行きましたけど。

さて、夢に出てきたのか、その関連で浮かんだのか、不思議なことにはっきりしないのですが、
横浜時代(昭和43年3月~5月)の独身寮(相鉄線・三ツ境)で出会ったある先輩のことが…

3月に入社、5月まで新入社員訓練(高卒)は横浜近辺の事業所を転々。(円覚寺でも)
そんな日々の中、音楽に飢えていた私はいきなり先輩の部屋(4人部屋)をノック。
「ステレオ、聴かせてくれませんか?」
『今年入ったのかい?、いいよ』とやさしい声をかけてくれた先輩がいました。
その先輩は四国出身、大和市にあったステレオ工場勤務の、今でいうイケメン(笑)
確か二年上だったと記憶していますが、同室の方もやさしく『いつでもおいで』って。
「○○の部署に配属されるといいな、って」
『学生気分が抜けてないなぁ、そううまくいかないヨ』
同室(基本は全員同期)だったもう一人の方は、アマチュアのジャズバンドに所属していて、
川崎でのライブに行ったりもしましたが、他の二人はまったく記憶にない

新入社員訓練が終わって横浜工場に配属された直後、横浜線・相模原の寮へ移ることになり、
あっけなく「わずか2ヵ月の横浜時代」は幕(笑)
寮の屋上から「あこがれの富士山」が見える抜群の環境だったのに…。
(相模原は寮の近くが未舗装道路、周辺は雑木林や畑、通勤時間が倍近かった)

その先輩は何年後かに退職、地元(新居浜)の家電量販店に再就職していると聞き、
高知時代に会いに行ったことがありますが、憶えてくれていました。
『ヘンな奴がいきなり入ってきたなぁ』って思ったそう。
45年近く前の、若いころの遠~い記憶がなんで今頃?(笑)

過去ログ:「昭和43年

ザトペック投法

2012-04-07 02:50:44 | 想い出話
何気なくgooのスポーツ記事を見ていたら、「防御率1点台、超一流投手の証明」というのが。
昨今の野球は「打高投低」と言われ、息詰まるような投手戦はめったに観られません。
昨シーズン、統一球の採用で投手成績が上昇、ダルビッシュと田中マーくんが1点台でタイトルを争い、
話題になった関連記事でした。

その記事の中で「その場所に私も居合わせた!」写真がコレ村山実引退試合
記事にある、昭和48年3月21日の阪神・巨人オープン戦(甲子園球場)を観に行ってたのです。
村山氏がブルペンから江夏氏らの騎馬に担がれ登場したシーン、私も200ミリの望遠で撮りましたよ(笑)
押入れに入れたままの「記念品」の中に、ネガや写真もあるはず…。

当時の私は巨人ファン、それでも「ザトペック投法」の異名を持つ村山氏の力投には「敵ながらあっぱれ!」。
ユニホームが汗でびっしょり、居並ぶ強打者に真っ向勝負を挑む姿が思い出されます。

村山氏は、'98年に61歳という若さで亡くなられました。


【後日追記】
村山氏といえば「天覧試合」(昭和34年6月25日・後楽園球場)。
長嶋さんが9回裏サヨナラ本塁打を放って終了しましたが、陛下が帰られる予定時刻直前だったとか。
(延長になると試合終了まで観られなかった)
「ON」が初のアベックホームランを放ったり、小山・村山の両エースを登板させるという阪神の意気込みといい、
歴史に残る試合だったことは間違いないようです。詳しくはコチラ

栄枯盛衰

2012-04-03 00:44:50 | 想い出話
オーディオメーカーとして、一世風靡した「サンスイ」が会社更生法の適用を申請、
事実上倒産というニュースが。 ヤフーニュースの記事
昭和40年代、新興オーディオメーカーとして「パイオニア」「トリオ(現ケンウッド)」と並ぶ三羽烏でした。
以前、ステレオでちょっと触れましたが、我々の世代が社会人になったころHi-Fiオーディオ装置が家庭に浸透、
音楽がラジオからステレオに移った時期に急成長したともいえます。

記事によると、昭和50年代中頃から経営危機に陥り、外国企業の傘下に入って再建を図ったようですがうまくいかず、
ついに負債総額わずか2億5千万円でダウンとなったようです。
忘れかけた記憶をたどると、「家でレコードを聴く」から、もっと手軽な機器※へ需要がシフトしていったころで、
サンスイさんもその対応ができなかったのかも…。
 ※ソニーのウォークマン発売が54年、ミニコンポが主流になっていった

サンスイといえば、真空管アンプの名器「AU-111」を思い出します。
ブラックパネルの重厚なデザイン、タマ(球)は「6L6GCのP-P(プッシュプル)」でした。
高校時代、姫路駅前にあったオーディオ専門店(確か正電社だった)で鳴らしていたのを聴いたことがありますが、
ジャズのベースのリアルな音に唸ったのを憶えています。
 ※ソースはテープ(38・2トラ?)、スピーカーも超高級品だったけど
トランジスタの後継機「AU-777」は不評だったかな?
ちなみに、その昔会社に内緒でサンスイのプリメインアンプ「AU-555」を買ったことがあります。
そのころビクターに私の給料で買える手ごろなアンプがなかった、というのもありますけど
給料が上がって「JA-S7」を買ったのは高知時代、師匠は上位機種の「JA-S9」だったっけ(笑)

今のPC同様「際限のない世界」、ある程度で手を打たないとエライことになります。

三丁目の夕日と東京オリンピック

2011-10-28 11:26:21 | 想い出話
来年1月に「三丁目の夕日'64」が公開されます。予告編はこちら
もう「続編は制作されない」とのことでしたが、3匹目のドジョウかいな
まぁ、膨大な人数の我々の世代が「それ」を惜しんだ、ということにしとこう。
次作は「3D」、映画館の料金は2Dより300円高い。(60歳以上は、1,000円)
3D用メガネ代が別途プラスですが、「ハリー・ポッター死の秘宝Ⅱ」のときに入手したので不要(笑)
3Dは、ディズニーランド(もちろん浦安の)やユニバーサルスタジオで観たことがありますが、
当時は老眼が進んでいなかったこともあってか?、観たあと「目がクラクラ」。
しかしハリーポッターではそんなこともなく、まぁこんなもんか…。

今回の舞台は、昭和39年10月の「東京オリンピック」がサブテーマ。
日本が戦後の復興を遂げたのを世界にアピールする、という絶好のイベントでした。
まぁ、それに向けて「国家総動員」みたいになったのが、その後のさまざまな「歪み」の元凶か?、
というのは今回は置いときましょう。
当時私は中学3年生、やっと田舎暮らしにも慣れ、夏は近くの川で暗くなるまで泳いだり、
友達と近くの山へ登ったりキャンプしたり、夜は深夜放送にかじりつく、という毎日。
学校の成績はよかった(特に社会科)けど、勉強は嫌い!(笑)
運動会で「東京五輪音頭」(by三波春夫さん)を踊らされたっけ…

オリンピックのテレビ中継は、学校へ持ち込まれたテレビでカラー放送も視ました。
もちろん今の地デジとは比ぶべくもない「低画質」、確かサッカーの中継だったっけ。
後に「記録映画」も観ましたが、市川崑監督で世間では不評※。
 ※日本選手の「金メダルのシーン」があまり撮られてない、とか。
私はカメラワークがすごいな…、と思いましたけど。

オリンピックで印象(ほとんど映画)に残っているのは、女子バレーボールの金メダルだけじゃなく、
女子80mハードルの依田郁子さん、体操・つり輪の早田卓次さん(下馬評は低かった)など。
ドン・ショランダーやボブ・ヘイズとか、ケタ外れのアスリートもいましたね。
それから柔道無差別級でヘーシンクさんに押さえ込まれ、敗色濃厚となったときのコーチ陣。
畳?を叩いて声援を送る悲痛な表情を憶えています。

そしてマラソン銅メダルの円谷幸吉さん。
国立競技場で力尽き、銅メダルに終ったのが後の不幸なできごとにつながったのかも…。
ただ、頑張ってる人にさらに「頑張れ!」というのは無責任、というのを教わりました。
競技前、競技中に受けた(であろう)日本中からのプレッシャー、競技場に戻ってからの声援が
どれほど円谷さんの負担になっていたか…。
全力を出し切っていない人に叱咤激励は当然でしょうが、限界まで出している人には酷でしょう。
過去のオリンピック・男子マラソンでメダルを獲得したのは「わずか3人※」。
 ※日韓併合時代のお二人を除く。他に君原健二・森下広一両氏のみ
それだけでも「スゴイこと」です。

【夜追記】
リンクした前の記事中の尼崎市の人口ですが、検索したら「国勢調査・昭和35年」がありました。
それによると、昭和35年10月1日には【405,955人】だったそう。(私は小5)
私らが引っ越した(昭和37年)あと、昭和40年の調査では50万人を超えたようです。

臨時寄港

2009-11-03 23:55:54 | 想い出話
今日の当地は、日差しはあったものの気温が上がらず、早や晩秋の気配。
最高気温は、14.2℃で11月下旬なみでした。(最低気温は7.2℃)
屋島山腹や街路樹(モミジバフウ)もかなり紅葉し、あと半月ほどでしょうか…
 全国の紅葉情報
当地の紅葉見物の№1は、小豆島の「寒霞渓」というところです。
大昔に一度行ったかな?(いつでも行けるのでとんとゴブサタ)
麓から山上まで、ロープウェーからの眺めが有名です。

小豆島へは、大阪・神戸からも関西汽船の季節便※があります。
 ※繁忙期のみ、別府航路の大型船の間合い運航(紅葉シーズンはない)
関西汽船の季節便は、小豆島の表玄関である土庄港ではなく「坂手港」着発。
坂手港だけが昔(別府航路の観光船が寄港していた)から大型船が接岸できたから、
と記憶していますが、私がフェリー会社に勤めていたころの出来事を思い出しました。

高松~神戸のフェリーで、一度関西汽船便(六甲丸と生駒丸)の船内で急病人が出て、
急遽小豆島に寄港する、という事件がありました。(確か上り便…高松⇒神戸)
高松に戻るより小豆島に寄ったほうが早いし、神戸への延着時間も少なくて済む、
という判断だったようです。
別府航路の経験がある乗組員もいただろうし、前代見聞?の対応ができたのでしょう。
「今は昔」の話です。

一日15便あった高松⇔神戸の航路(他に高速船や夜行客船まであった)も今では
わずかフェリー4往復に減便。
高速道路が千円どころかタダにでもなったら、コンテナ輸送船(客を乗せない)に
なってしまうかも…。

【今日の一曲】
『シェーン』~サウンドトラック(ヴィクター・ヤング楽団)

説明なんか要りませんよね?(笑)


オヤジの命日

2009-09-13 23:19:46 | 想い出話
今日9月13日は、オヤジ(大正9年生まれ)の命日。
神戸・三ノ宮の病院に入院していて、意識がなくなった、という妹からの連絡で
12日に仕事を終えて新幹線で帰郷、その夜は病院に母と泊り込みました。
真夜中に、母が「寝息がえらい静かになった、唇の色も白い…」
うつらうつらしていた私『ぐっすり寝よるんとちゃう(違う)ん?』
母が「いや、やっぱりおかしい」というので、当直の先生を呼びに行きました。

先生が心臓マッサージをしてくれましたが、息を吹き返さず、
改めて心電図を見て、「○時XX分、でした…」

姉や妹に電話して病院に来てもらい、朝自宅へ連れて帰りました。
あわただしく葬式の段取りをして、オヤジを担いで納棺のときにだけ涙が…
(ガンと診断され余命3週間~2ヵ月というので、心の準備はできていましたが…)
ちょうど3連休(15日の月曜日は、当時敬老の日)でもあり、オヤジのことだから
「皆が集まりやすい日程」を考えて死んだのかな?、というのは後日談(笑)

息をひきとる前、母とオムツを替えたとき目を開いて私を見つめたように見え、
その話をしたら姉も妹も「アンタ(お兄ちゃん)が帰るんを待っとったんやで…」

あれから29年経ちました。

ちなみに、9月13日は当時勤めていた日本ビクターの「創立記念日」。
毎年、精勤賞とお菓子(たいてい犬のマーク入り月餅)が従業員に配られるので、
「命日のお供えのお菓子まで段取りしとるわ」って(笑)

さて、その昭和55年にちなんだ【今日の一曲】
『Rydeen』~YMO

この曲を収めたアルバム(ソリッド・ステート・サヴァイヴァー)は前年だそうですが、
この年6月21日にシングル盤をリリース。
メンバーは、坂本龍一・細野晴臣・高橋幸宏。
細野晴臣の祖父は、あのタイタニック号に乗船していた「ただ一人の日本人」、
というのは有名な話。