印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

美薗小学校ができるの?

2011-04-05 17:36:34 | folk lore
昨日立ちあいでご一緒だった方がいっていた。40年代に中学生だったという。昔の話をたくさん聞いた。まさしくふるさと伝承だね。

小学校中学校とここで育って、もう一人の方と同級生で一緒だったって、幼馴染なんだね。

中学校のとき、シラサギ当番があって、当番の時はどじょうを見沼田圃にとりにいって。秋になって田圃が干上って、泥沼になって、そこに土壌が泥土にもぐって、ちょっと手をつっこむと、じつに5から6匹うじゃうじゃとれる。それをシラサギにあげる。

見沼田圃には蛍がびっしりいた。学校の帰りは蛍の季節は蛍に囲まれて家に帰ってた。稲の基の茎の方についた幼虫までも光っていた。

見沼東縁から芝川までずうっと田圃をもっている豪農があって、東縁の上から芝川までだんだんに田圃をつくって、あぜ道もつくって、上から順に水をはっていって、芝川にながす。それを全部持主がひとりでつくったのですって。長さは200mもあったそうです。

その話した人の家も家業は農家で田圃はたくさんあった。雨で田圃が水浸しになり、学校が休みになり、親父の手伝いで、大八車をひいて、鳩ヶ谷までできた作物をもっていったそうだ。


その時代は人口も少なくてこじんまりして、田圃ばっかりだった。今は美薗サッカー場もでき、イオンモールもでき、マンションもできて、人口もふえたという。だからこの4月から美薗小学校ができるの知ってる?ともう一人の同級生に聞いていた。家はサッカー場の入口近くといっていた。まだまだ空き地いっぱいあるけどね。埼玉高速鉄道の美薗駅があるから。これからどんどん発展するだろう。

昔話が風にのって、やってきたようだ。
クラスに井沢姓がふたりいたって、見沼代用水をつくった、井沢弥総兵衛為永さんの子孫だといっていた。

今はシラサギも蛍もいない。たまに灰色の大サギをみるくらいだ。

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