犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

為末大著 『走りながら考える』

2013-01-29 22:34:14 | 読書感想文

p.60~

 頑張れば夢は叶う。この言葉を突き詰めると、夢が叶ってない人は全員、頑張っていないか、あるいは頑張りが足りないということになってしまう。やればできる。頑張れば手に入る。始めのうちはその言葉を胸に頑張れるけれど、そのうちに、どんなに頑張ってもどうにもならないものに出合ってしまう。

 「やればできる」という姿勢は、結果責任が個人の努力に向かいやすい。子どもは敏感だからそのカラクリにすぐに気づき、本音で夢を語ることを嫌がるようになる。本音で夢を語った瞬間、それが叶わなかったら「お前の努力不足なんだよ」という批判が飛んでくるのを知っているからだ。


p.77~

 誤解を恐れずに言えば、世の中の人はほとんど1番にならないのだと思う。勝ちと負けという図式を冷静に見ると、金メダリスト、つまり1位以外は全員敗者とも言える。どうしてもつきまとう期待や希望、願望を思いきって排除して現実を現実のまま見つめることは、緩やかな挫折に近いと思う。人生は、その緩やかな挫折を受け入れることであり、人生、最後は「負け」で終わる。


p.174~

 自分の競技人生がいつか終わると強く意識した日から、目の前の景色が変わって見えた。特に父の死が伏線となって、命の終わりを経験したことも大きかったと思う。会社員の65歳に比べ、アスリートの引退はずっと早い。セカンドキャリアを考えれば人生を二度、三度と生きる感じだ。嫌でも早いうちに自分の「死」を迎える。


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 「夢は叶わない」「努力は報われない」という命題の説得力が、単に逆説による反作用によるものであれば、これはルサンチマンの表われに過ぎないと思います。これに対して、化け物のような体力と精神力によって勝負の世界を生き、他人を蹴落とし、自分も蹴落とされてきた人物による言葉からは、逆説ではない真実が感じられます。

 スポーツ選手の競技人生は短く、引退が第二の人生の始まりであれば、その瞬間に第一の人生は「死」となります。頭だけで考えられた理屈と異なり、全身で生きた結果として残酷に勝ち負けが分かれた者の言葉は、その嘘が自分自身に向かう分だけ第三者の解釈を拒むように思います。自分の体を限界まで追い込んだ結果として知られる限界は、「自分」と「自分の体」を分けた上での統合を強いられるものだと思います。