犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (5)

2013-01-08 23:35:54 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 弁護士からの手紙などは、和解を急ぐためのものとしか受け取れませんでした。事故後8ヶ月もたってから、紙切れ一枚に何事もないように、娘の命の値段を並べていたのです。誠意のかけらもありません。切なくて苦しくて思わず、クシャクシャに丸めていました。それら、今までの行動、言動を踏まえて、私達は被告のどこに、真の誠意、謝罪を感じる事が出来るのでしょうか。全ては自分の罪を軽くするための行為なのです。

 子供を思う親の気持ちは一緒だと思います。娘を守りたいという、被告の両親の思いが理解できないわけではありません。しかし、どんな理由であれ、一人の大切な命を奪った事実は変わりません。であるならば、「青だと思った」と言う、青の部分に固執するのではなく、だと思ったという不安定な部分を掘り下げ、現実を真摯に受け止め、今もっともすべき事は何であるかを、同じ親として適切な助言、指導するべきではなかったかと思います。

 保険会社や弁護士のうがった助言により、被告が真の謝罪を述べずに来たとしたら、まったく愚かな行為と言えます。被告の大人になりきれない思考に加え、被告の周りに、的確な助言が出来る大人がいなかったと理解しなければならないことが残念です。前回の公判でも、情状酌量を求める嘆願書を提出していた驚愕の事実を知りました。虚偽を働きつづけ、月命日に線香の一本をあげることなく過ごし、何をどのように捕らえての情状酌量なのでしょうか。

 いつまでたっても、真摯に現実を受け止める事は無く、まったく人事で、運が悪かったと言う思いなのです。永久に同じことの繰り返しです。たとえ過失という言葉で片付けたとしても、ひとつの尊い命を奪った事実は罪です。罪を犯した、犯罪には変わりありません。事故に居合わせた全ての人、その人を取り巻く人々の人生を狂わせた罪もあるのです。現実から逃げるのではなく、事実を捻じ曲げるのではなく、真摯に受け止めて欲しいと思います。


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 私が裁判の現場で経験してきた「表と裏」の二元論のベクトルは、私が日々感じている「世の中の表と裏」とは全く逆であり、被害者は一貫して裏側、マイナスの側に置かれていました。「明と暗」「前進と後退」という二元論の構造において、能動的である加害者と受動的である被害者の位置づけは決定的であったと思います。

 罪を犯した後でも保身に走ってしまう人間の弱さや悲しさを前提として、謝罪して立ち直ろうしている加害者については、未来への希望が前提とされています。これに対し、被害者については、憎しみと恨みに捕らわれ、自身の心も醜くしているとの固定観念が圧倒的です。世の中の「裏」の真実が「表」の真実を力でねじ伏せる場面だと思います。

 誤判を防ぐための証拠裁判主義は、人間の「裏」の真実を前提としています。人は自己弁護と保身のためには、あらゆる手を使って証拠を隠滅し、屁理屈を考え、他人を陥れ、罰から逃れようとするものだからです。そして、人間のかような欲望と、これを取り締まらなければならない法制度が対立する限り、誤判は論理的になくならないと思います。

 人間の本性が露わになる場面では、献身的な人物は腹黒い人物に上手く利用され、心を折られて精神を病みます。そして、裁判という究極の場面は、人間の本性が最も端的に現れる以上、このような裏の真実に支配されることになるのだと思います。「裁判制度は被害者のためにあるのではない」という原則は、この人間の汚い部分を端的に体現しているように感じます。

(続きます。)