犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

阪神・淡路大震災 18年

2013-01-17 00:02:58 | 時間・生死・人生

 災害の経験を人々が語り継がなければならないのは、それ自体の論理の必然性だと思います。阪神・淡路大震災で語られた体験談が、その後の災害の際に役に立ったのかという科学的な分析は、真に語るべきところの人間の心の奥底の部分を消してしまうように感じます。人は天災の発生を防ぐことができず、新たに起こった震災が以前の震災の記憶を風化させる作用を有する中で、人は共通の部分である必然的な論理を語るしかないのだと思います。

 阪神・淡路大震災の際も、中越地震の際も同じだったと記憶していますが、東日本大震災に際しても、新年を迎えると「今年は復興が進むことを願う」という言い回しが聞かれます。しかしながら、復興という概念を正確に用いるならば、年単位の区切りは不可能であり、「来年も、再来年も、それ以降も恐ろしく長い年月をかけて復興が進む途中である」と言うしかないと思います。年初の定型句からは、震災を過去のものにしたいという意味での前向きさがどうしても出てしまうように感じます。

 18年の時の経過は、一般的には、「時が悲しみを癒してくれる」「時間が一番の薬である」という社会通念で語れることが多いと思います。しかし、他の人間が代わることができない個人的な経験において、社会通念は全く無意味だと感じます。時薬が効くか効かないかは人間の感情の面の話ですが、論理の面では理不尽なものが理不尽でなくなることはあり得ないはずです。これは、例えば1+1が2であり、2×3が6であることは、18年経っても変わらないのと同じことだと思います。

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