犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森岡正博著 『生者と死者をつなぐ』

2013-01-14 22:03:45 | 読書感想文

p.182~ 「不幸になる自由」より

 私は、以前に書いた本の中で、脳を操作して完全な幸福感を生み出すことのできる薬が登場したら何が起きるのかについて考えたことがある。たとえば、子ども連れの親が道を歩いているときに、子どもがトラックにひき殺されたとする。親は狂乱のあまりパニック状態となるだろう。

 そのときに、この薬が処方される。すると、親の心からは、子どもを喪った苦しみが消え失せ、幸せな気持ちが湧いてくる。目の前でわが子をひき殺されたにもかかわらず、幸せな気持ちに満たされた親という存在を、この薬は生み出すことになるのである。「今日はわが子が殺されたけど、私はハッピーなんだよ」とにこにこしながら言う親を生み出すのである。

 直観的に言って、このような状況に置かれた親は、なにか人間としてのとても大事なものを奪われてしまっていると考えざるを得ない。すなわち、わが子が目の前で殺されたときに、それをこのうえなく悲しく苦しく受け入れがたいこととして実感する自由というものを、その親は奪われているのである。そこには、「不幸になる自由」というものが奪われているのである。

 もちろん、人間は誰しも幸福な気持ちに満たされたいと思っている。幸福になることは、人間が生きるうえでの最大の目標であるとも考えられるだろう。だがしかし、いま述べたような状況に陥ったとき、いくら薬を使って幸福感が得られたとしても、それを人生のもっとも素晴らしいひとときだと考えることはきわめて難しい。

 それはなぜかと言えば、不幸になる自由が保障されていない生は、そのもっとも深いところにおいて自分の人生が自分以外のものによって支配されているということになるのである、その状態はけっして尊厳ある生とは言えないからである。そしてここでいう「自分以外のもの」とは、薬によってただひたすら湧き上がってくる幸福感のことである。

 尊厳ある生とは、「私は幸福な気持ちに満たされていたい」というどうしようもない本性に突き動かされながらも、同時に「不幸になる自由」をみずから選択する可能性がつねに保障されているような生のことである。人をただひたすら幸福感で満たしてしまう薬は、この可能性を強制的に閉ざすがゆえに、人から尊厳ある生を奪い取ってしまうということなのだ。


***************************************************

 私は裁判所の刑事部に勤めていたとき、上記の薬を処方されたような親を何人も見ました。これは、子どもが邪魔になって虐待や育児放棄をし、傷害致死罪や保護責任者遺棄致死罪で逮捕・起訴された親です。法廷では「子どもに申し訳ない」との涙の懺悔がなされ、それが「私は子どもの死を認めない」「我が子を死なせるつもりはなかった」との自己弁護に結びつけられ、「検察官は我が子の敵である」として激しく争われていました。また、「子どもを喪った哀しみのうえに何年も刑務所から出られないのは二重の苦しみである」として、ほぼ間違いなく控訴されていました。

 私はこのような裁判に自ら携わり、いつも「やり切れない」「救いようがない」との気持ちを味わっていました。そして、このような親ばかりになれば人間社会は終わりであり、人は我が子の死を哀しまなければならないとの怒りを覚えていました。しかしながら、育児の大変さに理解を示す社会の主流は、「親だけを責めても始まらない」として親にも同情を示し、より広く社会全体の問題として論じるのが通例です。私はこの議論の流れにおいて、逆縁の哀しみが人間の最大の哀しみであるならば、人類はこれを克服してしまったのではないかとの感を持ちました。

 他方で、私は裁判所の刑事部に勤めていたとき、上記の薬を処方されていない親を何人も見ました。これは、事故や事件で我が子を奪われた被害者の親です。法廷では、「一生立ち直ることはない」「乗り越えられるわけがない」との証言がなされ、私はその度に心を深く抉られていました。我が子を虐待死させたうえに自己弁護の涙を流す親が「救いようのない」ものであれば、我が子の死の苦しみに涙も出ない親の言葉は「救いのない」ものでした。私がこのような2種類の親に接するとき、人間の最大の哀しみであるはずの逆縁をめぐる思考は混乱しました。

 私は、我が子の死よりも懲役刑の長さに苦しむ親の姿を見て、このような親ばかりでは人類は終わりであり、人は我が子の死を哀しむべきだと怒っていました。我が子の死を哀しむのが人の道であり、正義であるとの確信があったからです。ところが、実際にそのような親を目の当たりにすると、私の本心は、「何とかならないものか」「人としてこの不幸を救う方法はないものか」との方向を示しました。そして、その答えは、子どもを虐待して死なせた親の功利的な生き様の中にありました。私は、究極の矛盾に直面し、答えられず、1人でうなだれていました。