犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

アルジェリア人質事件(1) 

2013-01-25 23:31:40 | 国家・政治・刑罰

 アルジェリアという国について私が初めて習ったのは、確か中学校の地理の授業だった。アフリカ大陸の国境は直線的に引かれているところが多く、これはヨーロッパ諸国がアフリカを植民地化した際の名残りであることを知った。白人による土地の奪い合いの結果、アフリカの民族の文化などが一切無視され、物差しで引いたように土地が分けられたことにつき、私は単純に憤っていた。私はその時、「国」は人間が生み出した概念に過ぎないことに気付いていなかった。また、山脈や河川などに沿った曲線的な国境線であっても、やはり縄張り争いによる人為的な線であることにも気付いていなかった。

 高校の現代社会の授業では、1年間テーマを決めて自分なりの評釈を加えるという課題が出された。私はこの課題を通じ、社会的な事件から意味を見出すという姿勢を学んだ。そして、何らかの意味を見出せる視点は優れており、これを見出せない視点は劣っているという結論に至った。私はその頃、大事件の報道の際に「命を奪われた無念を思うと言葉がない」「ご家族の気持ちを想像すると胸が締め付けられる」といったコメントを聞いては、国や社会のレベルで問題を捉えないで何の意味があるのかと本気で腹を立てていた。その時私は、国や社会は人間の集まりの別名であることに気付いていなかった。

 私は大学院で刑事政策学の論文を書き、テロ犯罪についても堂々と自説を展開していた。世間知らずの学生は、この論文を書きながら脳内で世界を支配していた。私の論文には、国際捜査共助法、国際刑事警察機構(ICPO)、国際司法共助といった単語が並び、それなりの体裁を整えていた。この種の論文は、最後は「強制捜査の必要性と人権とのバランスについて国際的な議論を深めて行かなければならない」で締めるのが通常であったが、私は「テロ組織に対しても人命の重さを粘り強く訴えて行くことが大切なのである」と締めくくって、高い評価をもらった。その後、私は自分では何1つ訴えていない。

 一昨年の東日本大震災の直後、日本中から犠牲者の冥福を祈る声が聞かれた。私はこの声を聞きながら、今後数年の間に、冥福を祈っている側も、自分自身も含めて、思わぬ時に思わぬ形で冥福を祈られる側になることが確実であるという事実に気付いて悄然とした。そして、他人の冥福を祈る限りで他人の死は他人事であり、東日本大震災直後の犠牲者の冥福を祈る瞬間にはその先のことはわからないという現実をも突きつけられた。また、その現実が実際にそうなってみると、「実際にそうなった」としか言えず、現実はそうであるしかないという現実を突きつけられ、私は引き続き悄然とするしかなかった。

(続きます。)