犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その2

2013-01-12 23:47:29 | 時間・生死・人生

 体罰の是非が論点として据えられると、論争は極端に陥りがちだと思います。そして、論敵の犯す誤りについて心底から怒り、相手を力ずくで屈服ようとして吐かれる言葉は、かなり暴力的かつ破壊的であり、語るに落ちていると感じます。私も自分の経験から語るしかありませんが、「感情が抑えきれなって思わず手が出る」「暴力の余勢を駆って言葉で畳み掛ける快感は病み付きになる」といった人間の心情はコントロールできませんし、人が他者の人格を否定し尽くした際には、もはや暴力の行使は不要になっていると思います。

 権力を伴う暴力の問題は、今や学校現場の体罰のみではなく、大人社会のパワハラや夫婦間のDVの問題が非常に厳しいと思います。言葉の暴力と身体的な暴力の組み合わせが加速度的に破壊力を増すことや、立場の強弱に伴う受動性において投げつけられる不快感の暴力性や、それを受ける人間の一瞬における精神の凝縮された限界点は、年齢によってそう変わるものではないと思います。例えば、ブラック企業における社員の過労自殺は、長時間労働による疲労と暴言による虚脱感の複合の限界点に生じるように感じます。

 人はかなり簡単に「生きたくもないが死にたくもない」という心境に達し、それが「生きていたくない」という心境にまで至るものと思います。これは、「死にたい」という積極的な意志ではなく、単に「死にたくない」が「生きていたくもない」を上回っただけという話であり、主題は本人の人生ではなく、世の中のほうに委ねられている状況だと思います。すなわち、「この世界は生きるに値する場所か」という問いに対する答えです。さらには、生身の人間にとってのこの世界は、自分の周りに広がっているしかないものだと思います。

 本来は恐怖であるはずの死が望まれる状況を捉える際には、その原因が社会的にいかなる理由によるものであっても、「生きていたくない」と思う側に視座を移さない限り、煩瑣な分析と類型化がなされるのみだと思います。「この世界は生きるに値する場所である」と言うとき、世界は単に人間の集まりの別名であり、その人間のうちの1人が自分であり、自分が消えればこの世界は消えます。ところが、自分の存在を手段として扱う他人の権力が絶対的であるときには、自分が消えても、この世界は消えないのだと思います。

(続きます。)

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