犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (4)

2013-01-07 22:57:29 | 読書感想文

p.104~

 私は有希との別れから、ずっと求めていたことがありました。母親として、有希を1人で逝かせてしまったことは、長い間、どうしても自分を許せないこととして、心の中でくすぶっていました。ですから、最期の望みとして、ほんの数時間で良いから、温かく脈打つ手を握り締め、有希の名前を呼びながら「さよなら」を言いたかったとの思いがいつまでもあったのです。

 有希を喪って1年ほどは、過去ばかりを見て泣き暮らす自分や、どうしようもない悲しみ、何もしたくない無気力に襲われることを、いけないことと位置づけていました。そして、それらはエゴであり、エゴを持つことはいけないことだと否定していたのです。エゴを持つ自分、だめな自分と必死に戦っていたのです。

 そして、母親として有希に出来ることだと思い、心血を注いで努力してきた1審の刑事裁判を見届けた日。私はこれ以上ない苦しみを抱えてしまいました。結果だけを求めて行ってきた私は、耐え切れない苦しみを背負ってしまったのです。自分を責め続け、悶絶するような苦しみが数日続いた後、私は、自分の人生にピリオドを打つという、究極の選択で終結させようとしていました。

 些細なことを、過去の記憶から引っ張り出し、自分のいたらなさばかりを並べ立て、狂ったように泣いていました。そして、究極の自己否定へと落ちて行ったのです。私に生きる資格はない。償いのために有希の下へ行かなければならない。強迫観念にも似たその想いに支配されると、気持ちが楽になっている自分がいたのです。


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 世の中には表と裏があります。そして、言葉巧みに言い逃れをしたり、何でも他人のせいにしているほうが世の中を上手く渡れますし、犯した罪を認めるよりも認めない方が楽です。心の底から反省して謝罪を続けるのは非常に苦しいですが、保身のために上手く謝るポーズを会得していれば、精神衛生の平穏を保つことができます。

 これらは「裏」のほうの真実であり、人はこの真実を用いるとき、いくらでも頭の中から言葉が出てきて、理路整然と屁理屈を語ることができるものと思います。これは、他人の行動を見ているときよりも、私自身の行動を振り返ったときに、より強く感じることです。世間の常識に従って生きる人間は、楽なほうに流れるものです。

 これらの裏の真実に対し、「愛娘の生きた証を軌跡として形に残したい」という母親の思いは、「表」のほうの真実であるしかないと思います。そして、これは絶望的な苦難の連続であらざるを得ず、世渡りの技術としての立場の使い分けとは無縁であり、ましてやタヌキとキツネの化かし合いとも無縁であり、自分の人生に嘘がつけない事態だと思います。

 世の中の汚い部分では争いが絶えないですが、世の中の「表」の真実は、その外部での闘いを強いられるものと思います。世間の常識などに意味はないということです。そして、「嘘も方便」として世の中に妥協している者は、自分の人生に嘘をつかない者の言葉を恐れ、敬意を払いつつも遠ざけざるを得ないのだと思います。

(続きます。)

三浦しをん著 『風が強く吹いている』より

2013-01-03 22:08:04 | 読書感想文

(箱根駅伝を題材にした小説です。)
p.280~

 長距離は、爆発的な瞬発力がいるわけでも、試合中に極度に集中して技を繰り出すものでもない。両脚を交互にまえに出して、淡々と進むだけだ。大多数のひとが経験したことのある、「走る」という単純な行為を、決められた距離のあいだ持続すればいいだけだ。持続するための体力は、日々の練習で培っている。

 それにもかかわらず、いままで何度も、試合中に、試合直前に、調子を崩す選手を目にしてきた。最初は順調に走っていたのに、突如としてペースを乱す。体はうまく仕上がっていたのに、レースの3日前になって急に練習時のタイムが失速する。すごく気をつけていたはずなのに風邪を引き、試合当日にメンバーから外されたものもいた。

 なぜ自滅してしまうのか。自身も、高校時代に最後に出場したインターハイでは、下痢になった。冷えたわけでも、腐ったものを食べたわけでもないのに、なぜか突然、腹具合が悪くなったのだ。それでも走れたから問題はないが、「どうして、よりによってレース前に腹なんか下したんだろう」と、ずっと引っかかっていた。

 いまならばわかる。「調整の失敗」と言い表されるもの。それらの原因のほとんどが、プレッシャーなのだ。どれだけ練習を積んでも、「これで充分なのか」とふいを突いて浮上してくる不安。充分だと確信したとたんに、「それでも失敗したら」と湧きあがる恐れ。肉体と精神は研げば研ぐほど、脆くもなっていく。精密機械が、ちょっとの埃であっけなく壊れてしまうように。


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 あらゆるスポーツの大会に共通することですが、勝者のコメントはどれも似たようなものであるのに対し、敗者のコメントは様々であると思います。箱根駅伝においても、栄光を掴んだ大学の関係者の喜びの声はどれも似通ったものですが、惨敗を喫した大学の関係者の敗戦の弁はそれぞれに違っていると感じます。

 駅伝を実際に走った選手、控え選手、監督、コーチ、マネージャー、その他の裏方の人々、OBによる後援会、入試の志願者数が気になる経営陣など、立場はそれぞれに違っていると思います。そして、不本意に終わった大学の内部における立場の違い方は、「悔しい」「申し訳ない」「情けない」「やり切れない」「身の置き所がない」など、それぞれに感情の表現が難しく、論理の混迷は免れないと感じます。

 これに対し、勝者の内部でも喜びの種類はそれぞれに違うはずですが、めでたさに紛れて「細かいことはどうでもいい」という結論が許され、衝突が起こる余地はないように思います。スポーツの大会における勝者が、いつも見る者に元気を与え、見る者が勇気をもらうという決まり事も、改めて疑われることはないと思います。