犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その1

2013-01-11 22:53:07 | 時間・生死・人生

時事通信 1月10日 配信記事より

 大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、男子生徒が自殺前日、家族に対し「顧問から30~40回殴られた」と明かしていたことが10日、市教委への取材で分かった。

 市教委は体罰の具体的な回数について、家族から聞いて把握していたが、これまで「数回たたいた」とする顧問の説明だけを公表していた。市教委は今月8日以降、顧問の説明のほか、「いっぱい殴られた」と男子生徒が語ったことは明らかにしていたが、両親から聞き取った具体的な回数などについては一切言及していなかった。 


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 私が以前に担当した裁判で、体罰の件ではないですが、自殺の前日に殴られた回数が細かく問題になっていた件がありました。「二十数回殴られた」という部分は一致していましたが、それが21回なのか29回なのかが判明せず、結論を左右する大問題だとして法廷で激しい言い争いになっており、私は組織人の義務に従って粛々と職務をこなしていました。その後も、精緻な医学の知識と法律の論理は、重箱の隅にはまると抜けられず、議論はあらぬ方向に行き、政治的な立場の争いに落ちることを思い知らされています。

 死者自身がいない場所で繰り広げられる「証拠による過去の客観的事実の確定」は、生き残った者同士の争いである以上、死者の意志は徐々に無視されることになるものと思います。人は物理的暴力ではない言葉の暴力のみで死を求めるものであり、他方で物理的暴力があっても言葉によって死を求めなくなるものであり、その暴力と言葉の組み合わせによる破壊力は、その人の心の中でしか起き得ないものです。暴力の内容を細かく問題とし、他方で言葉の「言った言わない」を別に問題とすることは、死者の側から見れば無意味な作業に尽きるものと思います。

 ある人の自殺という事実を捉える際に、本人以外の者を主体に捉える限り、本来的に「死人に口なし」以外の結論には至らないだろうと思います。「死にたくない」という本能が自分の身を守ろうとし、その本能によって自分自身を殺し、その結果として死に追い込まれたという事実の解明は、その本人が存在しない以上、世間の常識における実益がありません。他方で、生きている人間であっても、その時のその気持ちはその時限りであり、「死にたいと思った」という気持ちについても、文字にして残そうとすればするほど嘘しか書けなくなるものと思います。

 行き場のない議論は、正義感の強い者によって、マスコミでもネットでも悪者探しが行われるのが通常だと思います。体罰が問題の核心であるとなれば、正義によるバッシングは鬼の首を取ったように高揚感を帯びたものとなりますが、その怒りはあまり上品なものではないと感じます。そのような怒りは、例えば電車が人身事故で遅延したとなれば、「死ぬときくらい人に迷惑を掛けないで家で勝手に首を吊ってろ」という怒りを生みがちであり、人の死がその都度恣意的に利用されていると思うからです。

(続きます。)

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