犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

アルジェリア人質事件(2)

2013-01-27 23:03:37 | 国家・政治・刑罰

 いかに世界がグローバル化しようとも、人が富や名誉や幸福の無意味さを知るとき、やはり言葉を求めるしかない。これは、人生の真実を語る言葉のことである。この言葉とは、日本語や英語といった言語の種類のことではなく、世界は言葉であり、言葉が世界を創っているという意味の言葉である。そして、そうであるにもかかわらず、このような言葉を語ろうとすると、人は言葉の裏側に出てしまう。他人からその言葉を聞くことができないのみならず、自分でその言葉を語ろうとすると語れない。真実を語った傍から嘘を語っていたことに気付き、愕然とさせられる。

 人が真実を語る言葉を語ろうとして語れないとき、その語ろうとして語れないところの言葉を語ろうとする役割を担うべき学問は、本来は哲学を置いて他にない。これは、大学で習うような哲学のお勉強や、ましてや学者と学者の論争ではなく、単に「自分で考えるより確実なことはない」という学問のことである。そして、本当の意味で考えるということは、生易しいものではない。研究室内でのお勉強は、「犠牲者の遺体を乗せた政府専用機が羽田空港に到着し、家族らは無言の帰国をした犠牲者と悲しみの対面を果たした」としか言葉で表現できない現実を前にして、それ以上の言葉を語ることができない。

 人が人生の全てを懸けて何かを考えざるを得ない場合、そこには社会問題や国際問題は存在しない。全ては自分の人生の問題である。そして、この部分を嘘のないように言葉で語ろうとすると、その言葉は嘘になる。話そうとすると嘘を話しており、書こうとすると嘘を書いている。もどかしい。伝わらない。書いては消して、書いては消して、自分の気持ちを書いたと思って読み返したら嘘で、結局は書けなくなる。ここを世間の常識に訴えても、優等生の面白くない答えが返ってくるだけである。綺麗事はいくらでも言葉になり、言葉にならない言葉は綺麗事に圧倒される。

 この世の中で生活するということは、世の中の問題相互間の矛盾関係を見ずに、縦割りの論点主義で処理し、「それとこれとは別問題だ」として先に進むことである。実際の生活において、限られた時間と空間に生きる人間の頭脳は、この手法を会得しておかなければ混乱を極め、逆に思考停止する。恐らく、グローバルな国際社会における生身の人間の限界は、この部分である。世の中の大多数の人は、私も含め、適当に周りを見渡して他人の真似をし、多数派の価値観を横目で見ながら、自分で考えているつもりになっている。私は、本物の哲学者になることを強いられた犠牲者の家族に頭が上がらない。

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