犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三浦しをん著 『風が強く吹いている』より

2013-01-03 22:08:04 | 読書感想文

(箱根駅伝を題材にした小説です。)
p.280~

 長距離は、爆発的な瞬発力がいるわけでも、試合中に極度に集中して技を繰り出すものでもない。両脚を交互にまえに出して、淡々と進むだけだ。大多数のひとが経験したことのある、「走る」という単純な行為を、決められた距離のあいだ持続すればいいだけだ。持続するための体力は、日々の練習で培っている。

 それにもかかわらず、いままで何度も、試合中に、試合直前に、調子を崩す選手を目にしてきた。最初は順調に走っていたのに、突如としてペースを乱す。体はうまく仕上がっていたのに、レースの3日前になって急に練習時のタイムが失速する。すごく気をつけていたはずなのに風邪を引き、試合当日にメンバーから外されたものもいた。

 なぜ自滅してしまうのか。自身も、高校時代に最後に出場したインターハイでは、下痢になった。冷えたわけでも、腐ったものを食べたわけでもないのに、なぜか突然、腹具合が悪くなったのだ。それでも走れたから問題はないが、「どうして、よりによってレース前に腹なんか下したんだろう」と、ずっと引っかかっていた。

 いまならばわかる。「調整の失敗」と言い表されるもの。それらの原因のほとんどが、プレッシャーなのだ。どれだけ練習を積んでも、「これで充分なのか」とふいを突いて浮上してくる不安。充分だと確信したとたんに、「それでも失敗したら」と湧きあがる恐れ。肉体と精神は研げば研ぐほど、脆くもなっていく。精密機械が、ちょっとの埃であっけなく壊れてしまうように。


***************************************************

 あらゆるスポーツの大会に共通することですが、勝者のコメントはどれも似たようなものであるのに対し、敗者のコメントは様々であると思います。箱根駅伝においても、栄光を掴んだ大学の関係者の喜びの声はどれも似通ったものですが、惨敗を喫した大学の関係者の敗戦の弁はそれぞれに違っていると感じます。

 駅伝を実際に走った選手、控え選手、監督、コーチ、マネージャー、その他の裏方の人々、OBによる後援会、入試の志願者数が気になる経営陣など、立場はそれぞれに違っていると思います。そして、不本意に終わった大学の内部における立場の違い方は、「悔しい」「申し訳ない」「情けない」「やり切れない」「身の置き所がない」など、それぞれに感情の表現が難しく、論理の混迷は免れないと感じます。

 これに対し、勝者の内部でも喜びの種類はそれぞれに違うはずですが、めでたさに紛れて「細かいことはどうでもいい」という結論が許され、衝突が起こる余地はないように思います。スポーツの大会における勝者が、いつも見る者に元気を与え、見る者が勇気をもらうという決まり事も、改めて疑われることはないと思います。