犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

少年法改正の要綱案決定

2013-01-31 22:54:23 | 国家・政治・刑罰

朝日新聞 1月29日朝刊より

 法制審議会(法相の諮問機関)の少年法部会は28日、罪を犯した少年に対する有期刑の上限を引き上げ、下限を新設するなどの少年法改正の要綱案を決定した。少年審判に検察官が関与する範囲も広げており、厳罰化となる。2月8日に法相に答申され、法務省は通常国会に改正法案を提出する方針だ。

 2009年に大阪府富田林市で起きた少年による殺人事件で高校1年の次男を亡くした大久保巌さん(48)は「どこまで厳罰化されても無念を晴らせるわけではないが、成人の量刑との格差が少しでも縮まったことは評価できる」と話した。

 法制審の部会委員を務めた「少年犯罪被害当事者の会」の武るり子代表(58)も、暴行事件で長男を亡くした。検察官の関与が拡大することを「一歩前進」と評価した。有期刑の引き上げについても、「現行法は軽すぎる。厳罰化ではなく『適正化』と言いたい」。

 一方、前田忠弘・甲南大法学部教授(少年法)は「非行少年を保護して育て直し、再び非行に走らないようにすることで社会の安全が図られる。厳罰化でそれが達成できるのか」と疑問を投げかける。検察官の関与拡大についても、「追及されて少年が自分自身を守ろうとする傾向が強まり、本当の反省を引き出しにくくなる」と慎重な見方を示す。


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 何もない場所でゼロから現実に立ち向かうよりも、すでに「問題」となっているものについて賛成・反対論を述べることのほうが、数万倍は簡単だろうと思います。例えば政権が取れる見込みのない万年野党や、選手にスタンドから野次を飛ばしている観客や、ある出来事の断片のみから憤りや正義感を表明できるコメンテーターは幸せだと思います。好き勝手なことを言ったところで、その本筋の問題について自分が責任者として批判の矢面に立たされることがなく、身の破滅に至る危機感を生じることがないからです。

 人が世の中で生き残るということは、大小の組織の影響を受けつつその力関係に翻弄されることであり、問題を「他人事」にして生きる保身術の獲得の過程だと思います。いわゆる正論が虚しいのも、その論理が修羅場のど真ん中で精神を疲弊させつつ語られたものではなく、結果論や後知恵によって理路整然と構成されたものだからです。自分の身に危難が及ぶ立場に置かれたときに本当に役に立つのは、誰もが認めるところの正論の理屈ではなく、逃げ隠れする才覚ではないかと思います。

 私自身は現在、上記のような巧妙さの支配する論理に浸かって生きているだけに、「その人生を生きてしまっている方々」や「逃げ場のない人生を全身で生かされている方々」には絶対に頭が上がりません。人が精神の限界の限界に追い込まれ、言葉を失った先で捉えた言葉については、その行間の沈黙と絶句を捉えるしかないと思います。他方で、すでに「問題」となっている争点について客観的に近づき、当事者の声に「疑問を投げかける」「慎重な見方を示す」という形で反対論を述べる者に対しては、私は軽蔑の念を覚えます。

 刑罰論に関する報道は、現在ではほぼ形がほぼ決まっており、それが思考の形や問題の構造をも規定しているように感じます。すなわち、「自分の経験だけで語る被害者遺族」と「広く文献に精通している有識者」の対比、あるいは「知識のない素人」と「権威ある大学教授」の対比です。感情と理性の二元論と言ってもよいと思います。新聞が記事の最後の部分で大学教授などの権威の意見を紹介することは、客観性を装った新聞社の主観の表明であり、一種の印象操作であるとの話を聞いたこともあります。

 不回避的な苦悩の中で自由意思を奪われて必然的な論理を獲得することよりも、安全が保障された場から自由意思に従って意見を述べることのほうが、数万倍は簡単だろうと思います。また、「可哀想に」という上から目線や、「自分は違う」という安心感や、「自分はああはなりたくない」という希望や、「自分はそうならないだろう」という根拠のない自信などの心の奥底の感情を放置しつつ、客観的な論評をなしうる立場が保障された者は幸せだと思います。

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