犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「いじめ問題・この本を届けたい」より (2)

2012-09-02 23:49:47 | 読書感想文

(1)から続きます。

 いじめ問題の最前線で苦しんでいる方々が、この記事を読んで『14歳の君へ』に即効的な助けを求めたならば、恐らく見事に裏切られることと思います。そればかりか、現場の悲鳴や疲弊に対しては何の役にも立たない抽象論ばかりで、腹が立つというのが普通の反応ではないかと想像します。この本を手に取った14歳の中学生が次の日からいじめを止めるわけでもなく、いじめられている中学生がその苦しみから逃れられるわけでもないと思います。

 私も世間の荒波に連日揉まれ続け、形而上的な哲学の問いは目の前の具体的な問題解決にとって有害であることを嫌というほど知りました。それだけに、役に立たないことが役に立たないことである意味も知り抜くに至っています。すなわち、あらゆる問題について考えるのは自分でしかあり得ず、日常の仕事のその先には老いと死があるだけです。また、そのような人生において、「他人をいじめる」という行為は呆れるほど無意味で下らないものだと感じています。

 大津市の事件の裁判では、「教師が見て見ぬふりをした」との両親の訴えに対し、市側の弁護士が「誰が、いつ、どこで、どのようないじめを目撃し放置したか具体的に指摘していない」と反論したとの報道が反響を呼びました。裁判の現場ではよく聞かれる理屈であり、私も今やさほど驚かなくなっています。業界の風習に染まり、かなり善悪に鈍感になってしまったと感じます。近代的理性に基づく自律的個人が造り上げた法制度は、その生命尊重の論理によって人を死に追い詰めているのだと思います。


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(参考)
アルベール・カミュ 『シジフォスの神話』 冒頭より

 真に深刻な哲学的問題はただ1つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学の根本的な問いに答えることである。
 どうして『人生が生きるに値するか否か』という問いが他の問いよりも緊急であるか。そのわけを私なりに考えると、それはこの問いが行動にかかわるからである。私はかつて存在論的主張のために死んだ人のあることを知らない。
 不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。